昔は良かったねー。年寄りらしく昔話を一席・・・


日本における民間ボウリングセンターの第1号は、1952年[昭和27年]にオープンした東京青山の [東京ボウリングセンター] であります。わたくしが生まれて初めて投げたのが、1954年[昭和29年] それは19の春でした。日大の教授の娘サブミとともに、走る車から運転手を突き落とし公金を横領。2日後に熱海で逮捕されるとき 「オー!ミステイク」とうそぶいたという、戦後アプレゲール犯罪の第1ページを飾った山際ヒロユキ。悪いことにわたくしの友人、先輩でした。ある時彼が遊びに来てこう言うのです。


「スミ、おまえボウリングって知ってっか?」
「穴掘るヤツですか?」
「バッキャロー、最近アメリカから入ってきたカッコいいスポーツよ。よーし、今日はオレがボウリング教えてやっからついて来い。」


こうしてわたくしは、19の春、彼によって東京ボウリングセンターに連れ込まれたのであります。19歳のガキが抵抗なく入れるような雰囲気ではない。まるでハイソサエティの世界。客の半分以上は外人、日本人と見れば映画スターなど有名人ばかり。


「スミ、その辺にあるボールもってこい」


ボールには重さに違いがあるなんて知らないものですから、多分15〜16ポンドを選んだのです。その日の夕食、お箸がもてなかったのを覚えております。生まれて初めてのスコアは意外と覚えているものです。わたくしは128点でした。教えてやるからついてこいと言った山際は98点でした。そう、わたくしは彼の面目をつぶしたのです。イヤー怒りましてね・・・


「スミ、バッキャローお前初めてって言うからつれてきたのに経験あんじゃねーか」
「初めてです」
「バッキャロー、初めてで128出るわけねーじゃねーか、オレなんか半年やっていて98だぞ」
「初めてです」
「本当に初めてなのか」
「初めてです」


とたんに山際は感心し始めました。


「スミお前すごいぞ、初めてで128なんてヤツはいねーぞ。テニスなんてやめちまえ。空手3段だ?そんなもん止めてボウリングやれボウリング」


わたくしはとても信じやすいタイプなのです。暗示にかかりやすいタイプなのです。この会話がわたくしの運命を変えたのであります。その気になっちゃったのです。翌日から365日、少なくも3年間休みなしでTBCに通い続けたものです。コーチとしての教訓のひとつは山際の言葉にあったのです。まず、真実をほめてその気にさせろ・・・ 山際に感謝すべきか?恨むべきか?その答えは未だ出ていません。(続く)


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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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