1960年[昭和35年]までは手動式時代でした。
今はメカニックマンですが、当時はピンボーイが手でピンをバケットに押し込み立てていました。ボールも手で、滑り台の反動をを利用してボウラーの手元に返していたのです。


1人のピンボーイが2レーンを担当するとき、同時投球されますと、どちらのお客さまに対し、先にピンをセットし、ボールを返して良いか分からなくなります。同時投球の禁止(右側優先は間違いです)というエチケットは、このようにピンボーイに対する配慮から生まれたものなのです。エチケットにも発生理由や歴史があるのです。


客の立場でセンターに行きます。投球を開始する前、ボールの親指の穴に100円札を1〜2枚入れて、「オーイ!いくぞ!」 なんてピンボーイに声かけてガターなどに転がすのです(ガーターではなくガターです)。 いわばチップ。チップをやるかやらないかで、セットの早さが変わっちゃう。チップをはずんだ客には、リズミックに早いセットをしてくれるし、チップなしのケチな客には投げようとすると、いきなりピンボーイの足がピン前に出てきて邪魔をする。コノヤローなんて怒鳴って、ダブルウッドが残ろうものなら、チャンスとばかり、ピンを上に跳ね上げて何とかピンボーイにぶつけようとする。こんなのどかな時代があったのです。時たま、ピンボーイの頭にピンがぶつかったりする。東京ボウリングセンターのすぐ近くに青山外科ってのがあったけど、“いっちょあがりー” なんて言って担架で運ばれていったものです。


当時は、2レーンに1人スコアラーがついていました。美人揃い。60人採用なのに2,000人の応募者がありました。その中から選ぶのだから当然美人揃い。流行語で “八頭身美人” なんてのがありましたね。音楽はプレスリー、ヘアースタイルはポニーテールにリーゼント。5人チームリーグなんかはスコアラー大変でしたけど、一対のレーンに1人の客なんて時はスコアラーもヒマです。ストライクやスペアを黒く塗りつぶすのはスコアラーの暇つぶしだったのです。初心者がそれを見て、塗りつぶすのが正式なスコアの付け方だと思い真似をして、みんな塗りつぶしていました。精算はスコアラーと一緒にフロントに行き、彼女の申告により、料金を払っていたのであります。


いかにして安く投げるか? その唯一の方法はスコアラーをコマス(言葉悪いね)ことにつきたのであります。NBFの白石雅俊氏の奥様は、東京ボウリングセンターのスコアラーをやっていました。白石理事長はきっと誰よりも安く投げていたのではないか?もっとも白石氏はピンボーイでありました。現役のボウラーで昔ピンボーイ体験者は、もうたった2名しかいなくなった。白石理事長と、岩上太郎プロであります。早く当時の話を聞いておかないと手遅れになるよ・・・・。


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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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