おめでたくも何ともありませんが、本年5月1日に弊株式会社スミは、創設36周年を迎えました。


唐突ですが、1966年[昭和41年]に、わが国初めてのインストラクタークリニックが、日本ブランズウィック社の要請により開催されました。講師は、当時米国プロボウリング協会の会長でもあった、わたくし憧れのバズ・ファジオ。 わたくしはブランズウィックの指名で、バズのインストラクタークリニックのアシスタントとして、日本全国28ヶ所をバズと一緒に担当した。終了後、バズ・ファジオのボウリングスクールを映画化し、その監修も担当しました。 そんなことが縁だったのでしょうか? うまいことにブランズウィックに声をかけられ、翌1967年[昭和42年]に、アドバイザリー・コンサルタント・スタッフとしてブランズウィックと契約することに。何故かその契約は37年間、いまだに続行しています。ブランズウィックとの契約は1967年6月でしたが、ちなみに同年2月に日本プロボウリング協会が設立されています。


その当時の日本ブランズウィック社の社長は添田氏。ある時、わたくしは社長室に呼ばれました。
添田社長曰く「オイ、スミ、今後ブランズウィックは飛躍的に発展するぞ!キミは今のうちに会社でも興して、良い意味でブランズウィックを利用して金を儲けろヤ!」
「金儲けなんてどうやっていいのかわからないんですが?」
「バカ、オレが教えてやる、オレが儲けさせてやる!」
ってな会話がありまして、1968年[昭和43年]5月1日、資本金500万で株式会社スミの前身である[株式会社スミ・イモト・ボウリングオフィス] 通称SIBO[シボ]なるものを設立したのであります。そこから数えて今年の5月で36周年てな訳です。


わたくしが社長で、今年1月に亡くなったライセンスNo.2の井本正忠が専務。スタッフには、本年3月まで日本プロボウリング協会専務理事で威張っていた、ライセンスNo.15の大久保洪基。故田安明。女子プロ1期生の岩松八重子。などが在籍していましたね。顧問には、かのバドワイザーチームのキャプテンであるホワイティ・ハリス。後にBSG業務部長秋元泉、同スポルトナゴヤ支配人 故木下達雄・・・・。いい人材いっぱい居たね、いまも多分いい人材いるけれど?


主な業務内容は、ボウリング場の請負業務、ボウリング場経営のアドバイス&コンサティング業務、プロショップの経営、プロモート、メカニック、メンテナンスの請負業務等々。ブランズウィックからどんどん仕事はまわってくる。忙しかった。イヤー金もできましたネー。金ができればオンナもできる、てな訳でいろいろありましたわ。


男と女なんてのは、誰か言っていましたが犬と猫ほどの違いがありますネー。例えば性のこと、男は拡散的な性、女は集中的な性。女の卵子は毎回1ヶずつ。男の精子は1回に億以上の数を放出される。その内のたった1個が命中すれば済んじゃうんだそうですネ・・・・残りの精子は可哀想に全部死んじゃうんです。可哀想じゃありませんか? そのうち僅かでもイイから助けてやりたい、と無意識にでも思うのが人情ではありませんか? 男ってものじゃありませんか? 死んじゃう精子を僅かでも助けてあげたいために、男はさまよい歩くのです? 受け入れてくれる女を求めて? こんなものの見方に同感するヤツは、結婚しちゃぁいけないのです。かく言うわたくしは何故か3回もやっちゃった。そしてやっかいなことにいまだに女を求めるこのていたらく・・・・なのでございます・・・・。


今月は、わたくし何を言いたいのか・・・・?
何はともあれ、わが社創立36周年だと言うこと。
男と女は同じ人間でありながら、まったく違った種族だということ。
当時は金あったけど、今はまったく無ーってこと。
年も年だし、そろそろ年貢を納める時だってこと。
だからそろそろ社長も降りるかってこと。
人生いろいろあらーネってこと。
脇道ばかりだったけど、脇道こそ面白ケレってこと。
まーそんなこと言いたかったわけよ・・・・知らないけれど・・・・。


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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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