「バズとフランクリン」

なぜ、あめでたいのかわかりませんが、みんなが言うからわたくしも言っときましょう。明けましておめでとうございます。


正直申しまして、2004年度はボウリング業界は、残念ながら大幅な落ち込みの年でした。前年対比で10%〜20%ダウンが全国の平均です。スーパーボウルも例外ではありません。天候のせい? 休日配分が悪い? オリンピックの影響? 台風、地震? 様々な会話が飛び交います。全部他責、他に責任を転嫁している。正直に認めるべきです。テメエが悪いのだって。ほとんどのお客さまは投げることを目的として来場はしていません。他の目的のためにボウリング場を手段として利用なさりにお見えなのです。[目的から手段化への移行] 仲間と楽しいひとときを過ごす目的のために、ボウリング場を手段として利用しにみえるのです。投げるのことを目的から、仲間と楽しいひとときを過ごす目的のために手段としてボウリングを利用しに来場する。目的から手段化への移行。


それにしてはわれわれに工夫がなさすぎる。もうすでに、とっくに底は割れているのです。ボウリング場はどんなところなのか? どんなゲームなのか? どんな人たちがいるのか? どんなサービスがあるのか? エンターテイメントの世界で底が割れておもしろいと思う人はいますか? 他が悪いのではありません。自分が悪いのです。キーポイントはエンターテイメントであっても、そこからスポーツとしてのボウリングの面白さを伝える道筋をセンター内部につくりあげてきたか? ノン・・・・ボウリングはスポーツであるということを概念でわかっているだけ。しかもスポーツとは何か? も押さえていない。これでは落ち込むのも当たり前です。お正月早々変な話になっちゃった。そこでちょっとイイ話を・・・


1955年頃、自動車産業の町デトロイト。そこに1人の少年フランクリンがいた。ハイスクールに通っているフランクは家が貧しく、学校が終わると旋盤工としてアルバイトの毎日だった。彼の唯一の夢はプロボウラーになること。毎週1回の給料日、フランクはボウリング場に通っていた。リーグに参加していたのだ。ある日の給料日、リーグスタート前、彼はひとり黙々と練習に励んでいた。そこに突然、憧れのプロボウラー、バズ・ファジオが投球を始めたではないか。しかもフランクの隣のレーンで。フランクにとってバズは憧れの人。"バズみたいなプロになりたい!" バズはフランクにとって夢のまた夢のプロ。テレビで最初のパーフェクト達成者。さすがにフランクは緊張した。フランクは名前のようにいつも明るく気さくに誰とでも友達になれるそれこそフランクな少年だった。自分の練習を忘れしばらくバズの投球を見つめていたフランクとバズの目が合った。フランクは思い切ってバズに声をかけたのである。

「あの、プロになりたいのです。教えていただきたいのすが・・・・。」
ニコリともしないで、バズは言った。「ああ、そのうちな・・・・。」

そしてバズはフランクに目もくれずに投げ込みを続けたのである。フランクは思った。「やっぱりダメか。コーチ料も払えるわけでなし、コネがあるわけでもない・・・・。」


幾日か経過した。バズとの出会いも忘れかけたある日のリーグ前、いつもと変わらず練習に励んでいたフランクは、投げてアプローチを戻ってくる時、フランクを見ているバズと目が合ったのだ。彼はまたまた緊張のあまり萎縮しながら練習を続ける。バズに見られていることを意識しながら。「ああ、そのうちな」なんてかわされているのだ、もう声はかけられない。何分経過したかわからない。突然バズはフランクに近づいて声をかけたのだ。
「キミ、名前は?」
「フランクリンです」
「プロになりたいと言っていたな、本当になりたいのか?」
「ハイ!」
立て続けにバズの質問が飛んだ。年齢は?ボウリングにつぎ込めるお小遣いは? 練習に割ける時間は? 他のスポーツ体験は? 親の理解は? その他いろいろ・・・・。フランクは全て正直に答えた。
「よしわかった。明日からわたしがキミをコーチしよう。」
憧れのプロ、バズ。時のスーパースター、バズがボクにコーチをしてくれる。しかも無料で。ゲーム料もバズがセンターと掛け合ってくれるという。こんな夢みたいなことってあるのだろうか?


 

バズ・ファジオは後日筆者に語ってくれたことがある。
「プロになれるかどうか、それを見るのにわたしは3つの判断基準をもつ。第1はデザイヤー 第2にパワー、第3にアピアランス」 フランクはバズのお目にかなったのだ。


練習が始まった。「3ッのバズ基準」を満たしていたフランクは、見る見る上達、1年後フランクは全米ジュニア選手権で準優勝を勝ち取るところまで成長したのだ。 夢は近づきつつある。プロになる夢。PBA(プロフェッショナル・ボウラーズ・アソシエーション)プロになるには、2名以上のPBAメンバーの推薦だ。 バズは厳しかった、「プロになるのは簡単だ。難しいのはプロになって活躍することなのだ。ホームグランドでは230のアベレージ。他では220アベレージが必要だ。」フランクは頑張った。見る見るアベレージもそれに近づいていく。バズの信頼も厚い。 そんなある日、フランクはいつものバイト先で旋盤工の仕事をしていた。 何を考えていたのだろうか? きっとボウリングのこと、プロの夢が間近になったことか、バズのことか? 不注意にもフランクは旋盤の機械で右利き腕の指、人差し指から小指までの4本を切り落としてしまうのである。いくら自分の不注意であるとはいえ、この事故は希望をうち砕くこととなり、夢を失うこととなる。あれほど明るく誰にでも好かれたフランクは、この事故以来家に閉じこもり、誰とも会おうとしなくなっていた。陰気な少年に変わっていた。


半年が過ぎたそんなある日、バズがフランクを訪ねてきた。
「フランク、どうして練習に来ない?もう治っているではないか?」
「・・・・。」
「お前はそんな情けない人間だったのか?つらい気持ちは解るが何故練習に来ないのだ?」
プロを目指すフランクにはバズの気持ちが分からなかった。ボクは利き腕の4本の指を切断している。なのに、何故練習に来ないかというバズの言葉がわからない。バズは言った。
「フランク、お前には左腕があるのだ!」
なんということだろう、どうしてそこに気づかなかったのだろう。そうだ!ボクにはまだ左腕があるのだ!フランクはバズにしがみついた。涙をこぼしながら抱きついた。こうしてまたバズとフランクの戦いがまた開始されたのだ。

 

あれから半年が過ぎた。旋盤の仕事のせいだろうか? 右と左の神経の差がとてつもなくある。悪戦苦闘した。80の壁が破れない。ある時、バズが言った。
「フランク、もう1度右腕でいく。」
しかし指が無い。無理だ・・・・。バズは特別なグローブの考案を提案した。グローブに特別の鉄の指を取り付ける。ボールに特殊なドリリングを施し投げるというもの。試行錯誤して実験に実験を重ねて、ついにそれらしきものを完成させた。旋盤工だ。鉄の加工はお手のものだった。バズと相談しながら、だんだんと納得できるものが完成していく。そうしたテストを重ねる段階でもフランクのアベレージはどんどん上がっていった。180の壁を越え、190もクリアーしていく・・・


ある年のクリスマス号の[ボウラーズジャーナル誌]にフランクリンの手記が掲載されていた。
「私はプロボウラーになることを諦めた。しかし、結婚し子供も出来、家族で毎週リーグを楽しんでいる。現在56歳になり、旋盤工場を経営している。私の今のアベレージは196だ。幸せだ。バズ・ファジオありがとう。これもみんなバズ、あなたのおかげだ!」


1970年、筆者はバズと再会した。今でもフランクとは交流があるという。筆者の恩師でもあるバズは本物のインストラクターだ。翌年筆者はシカゴでフランクと会った。明るい人だった。フランクなヤツだった。


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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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