定かな記憶ではないが、昭和47年7月7日午前7時7分、石川県 [はくいボウル] がオープンした。清水満社長が、当時左門町にあった弊社を訪ねてくださった。そしてそのオープニングのデレクションを要請されたのでした。岩上太郎、安武民祐、そして須田開代子とわたくしとで乗り込んだのであります。女性の清水社長が言われるとおり、7並びのこの日をいまだに忘れてはいなかった。忘れられない理由は他にもある。それが今月のテーマ。


さて、47年7月7日午前7時7分に無事テープカットも終わり、地元の名士や今後顧客になるであろうお客さまを招待した当時お定まりのパーティーだ。それも午前9時半頃には終了し、夕刻6時から一般オープンだ。それまでホテルで休んでいてくださいとのこと、われわれ4人はホテルに戻りゴロゴロしていた。誰かがパチンコにいこうとの誘ったが、須田とわたくしはパチンコが嫌い。 麻雀やろうとの声もあがったが、須田が出来ない。 突然須田が言い出した。


「ネェ、ゴロゴロしてないで練習しましょうよ、練習」


オトコ3人反対したくも反対出来ない。何故なら夕刻からのチャレンジのための周到なる練習は、プロとして当然なのだから。嫌々、オトコ3人は須田に追従することとなった。現場に到着する7〜8分の道すがら、須田はわたくしにこう申し出たのである。


「ねぇ、すみさん・・・・」
「ん・・・・?」
「私フルロールでしょ、恥ずかしいの、何とかセミロールに直したいのだ
  けれど」
「やめときなさいよ。あなたはフルロールでアマチュア時代に数々のタイ
  トルを手に入れ、プロテストもトップ合格、その後も優勝が続いている
  じゃない。それにあなたは弓腕(猿腕?)でフルロールがマッチしてい
  るんだよ。バズ・ファジオだってフルロールで通しているんだ。ディッ
  ク・フーバー然り、恥ずかしいことなんて全くないよ」
「すみさんの意地悪、ボロボロになったってすみさんのせいなかにしない
  わよ。ちょっとぐらい教えてくれたっていいじゃないのよ・・・・意地悪!
  バカっ!」


そこまで言われて黙っていられない。「ようござんす。やってみゃしょう」


現場に到着した須田とわたくしはさっそくフルロールをセミロールにするコーチングに入ったのであります。名コーチであるわたくしはこんなテーマは訳ないのであります。ましてや相手は名手、須田開代子だ。ものの10分経つか経たないかの内に、見事セミローラーに変身である。それから1年ぐらい経ったでありましょうか、三重カップトーナメントの決勝に須田と海野房江が残った。わたくしは解説席。須田が飛んで来た。


「すみさん見たでしょ?」(見てたよ解説だもの・・・・と独り言)
「何を?」
「私完全にセミローラーになったでしょう?私。ありがとう」しかし、
  須田は海野に破れた。


さて [はくいボウル] での仕事が終わり、我々4人は清水社長のご厚意で石川県山中温泉の [鹿鳴館] というすごいホテルに招待されたのであります。部屋に着いた我々れは直ぐにお風呂に入ろうってんで、わたくしが真っ先に風呂場に行った。驚いた。男女混浴なのであります。しめた!須田が入ってくるかも知れない。わたくしは一人、女性脱衣場のすぐそばの湯船に陣取り、須田が入ってくるのを待ったのであります。やってきたのであります。素っ裸で。肩に手ぬぐいを引っかけて、だったかは忘れたけれども。わたくしと目が合った須田は、「キャっ!」という悲鳴を残して消えたのであります。須田開代子の裸を見たのは、西城正明よりわたくしの方が早かったのであります。


これを言いたいばかりに永くなりました。ゴメン。その後、須田はセミロールを通した。しかし、わたくしは最後までセミロールで良かったのかがわからなかった。偉大なプロボウラー、須田開代子はもういない。




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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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