三島由紀夫が何かの著作の冒頭の描写で、自分が産湯に浸かっていたときの情景を記憶していると、書いていたように思うが・・・「仮面の告白」か??わたくしメも3歳ぐらいからの記憶が意外と鮮名に残っているのであります。幼稚園時代、惚れたオンナがいてどうやって口説くかに悩んでいたこと、だとか・・・・ いまでも同じ悩みはあるのですが・・・・ どうだ若いだろう!と言いたいのであります。


 わたくしが6歳のときオヤジが他界した。以後、おふくろの兄貴、つまり、わたくしにとって伯父貴にオヤジを重ねて憧れたものでした。伯父は当時、新国劇の役者だった。島田省吾の1番弟子だったらしい。芸名は千葉栄といった。後に千葉隆三と改名。オヤジの死直後、6歳の時か?伯父の関係でグリコのコマーシャルに出演した。新聞紙で作った兜をかぶり、胸に一粒300メートルのゼッケンを付けて、腰には竹光。両手を挙げながら「一粒300メートル」って叫びながら走る。 テレビなんて無い時代だから、それらコマーシャルは映画館で流された。当時、芝白金三光町445番地に住んでいたわたくしは、自分のコマーシャルを見に、二の橋あたりにあった映画館に母親と行った。上映は確か「菊池千本槍」?片岡知恵蔵?以後、映画にハマる。


 小学校2〜3年の頃、NHKラジオのゴールデンタイムに放送されていた人気金曜ドラマ「ジョージガーシュインの少年時代」というドラマに主役で出演。当時のNHK放送劇団団長は、伯父の弟分巌金四郎。生放送が終わり、巌金四郎に誉められた。「光保、上手かったゾー、すごく良かったゾー」オイラはその気になった、オレの生きる道は俳優以外ないのだ。堅く堅く心に誓ったのであります。小3で自分の将来を堅く決心するってなことはあまりない。小5のとき3年間の疎開から戻り、仲間と演劇部を立ち上げた。小5で演劇部を立ち上げるってヤツもそうはいいないだろう。


 伯父は千秋実などと劇団バラ座を立ち上げていてその児童部に所属した。同い年の藤村有弘がいた。中1か中2のときバラ座公演でスチーブンソンの「宝島」の主役、ジム少年を有弘と日替わりで演じた。ある時、海賊シルバー役の伯父千葉栄が、持って出て来ねばならない手紙を楽屋に忘れてきた。舞台中央で「忘れた、忘れた」ってサインを送ってきた。わたしメはとっさに代用品を海賊シルバーに観客に見えないよう手渡す。無事好評裡に終了。その機転の良さを褒めちぎられた。役者への情熱はたかまるばかりだ。オイラは誉め言葉に他の人以上に弱いのだと思う。ひろ さちや教授に言わせればオイラは世間の奴隷だ。いまだに。


 18歳の初めだったか?当時、飛ぶ鳥を落とす大スター藤田進のぺぺルモコ「望郷」を伯父と共に、共立女子大ホールの舞台に立った。藤田演ずるペペルモコのけん玉ばかりやっている聾人の子分役だ。映画役者の藤田進は絶対に相手役の目を見ないのだ。やりにくかったネー・・・・ 当時、「少年期」というベストセラーの映画化。主役を一般公募。石浜明に決勝で敗れる。オレの方が断然Goodだったのにコネで負けた、と思っている。同年、伯父はテレビ時代を意識し、我がおふくろの援助で巣鴨に東京テレビスクール(テレスク)を設立した。後のオキョンこと藤村俊二が、NTV太閤記主役の大川太郎などがいた。わたくしはほとんどこのテレスクで過ごした。テレスクのうたい文句である“歌えて踊れて演技ができる”勉強、つまり演技、声楽、バレー、タップ、などに情熱を注ぐ。テレビ幕開け時代だ。しかし、すでに物心あるわたくしは伯父の演劇論が古く感じられる。スタニスラフスキーやコクラン、千田是也などなど読みあさった。


 尊敬している伯父と袂を分かち劇団七曜会に入団。浅利慶太がいた、新島寿里夫がいた。オレは寿里夫に心酔していく。60年安保闘争に参加。もしあのとき心酔したのが浅利慶太だったら、今頃オイラは劇団四季の大御所だったのだ。「キャッツ」なんかで唄って踊って演技してたよ。長男の名前、樹里加はこの寿里夫にちなんだ。当時の演劇活動は、思想対立ではなく金のことを中心として分裂しきりである。新劇ではメシ食えないッてんでラジオ、テレビで稼ぐ。ギャラの30〜50%は劇団に納める。売れてくると納めたくなくなる。退団して稼ぎに専念、分裂という方式である。七曜会も、四季と作品座に分裂。オイラは新島の後追いで作品座。矢代静一の「城」。主役のフランソワーズ荒井役、第1生命ホールだ。これは未だ記憶に残るオレの名演技。そしてアルベール・カミユの「正義の人々」の主役カリアイエフ役。苦労した。共立女子大学ホールだ。これは文学座も同時公演で競う。カリアイエフ役は中谷昇。同時期上演の競争は話題を呼んだ。新聞評、自慢じゃないが、イヤ自慢であるが、批評はオレが上だった。作品座は例によって分裂解散。あたしゃ俳優座に行こうと思ったのだが、既成劇団にアンチテーゼをもっての作品座だった。本音じゃ行きたいのだけれどもカッコつかないってんで、先輩仲間が東京俳優生活組合、通称俳協をつくり、そこに所属し、テレビ、アテレコ、ラジオ、文化映画などで稼ぎに徹する。いまでも俳協は大手プロダクションだ。七曜会から歩みを共にした先輩、声優の大御所、小林恭治氏が一昨日亡くなった。声を聴けば知らぬ人はいないという声優の主である。3月14日告別式。儀式が嫌いでまずいかないわたくしが行った。


 TVドラマでは何故かわたくしは悪役ばかりだった。やくざ、チンピラ、殺人犯など敵役ばかりだ。NTVの刑事物のはしり「ダイヤル110番」では月2本は犯人だ。フジテレの五社英雄監督、主演丹波哲朗の「トップ屋」でも悪役専門。同局、高松英男の「刑事」でも・・・・ この「刑事」では1回主役で犯人役を演じたヨ。NHK「事件記者」でも同じ。大スター岩下志摩、小松方正も同じ事務所。女子の名ナレーター木宮良子、演歌は大嫌いだが、彼女の「演歌の花道」のナレーションは絶品だった。岸田今日子の「子連れ狼」も最高のナレーションだ。 現在も活躍している、近石真介、中村正、納谷五郎、筈見純、肝付兼太、羽佐間道夫、小林清志、納谷五朗、毒蝮三太夫、大平透、青野武、肝付健太、最近亡くなった藤岡琢也など、みんなアテレコ仲間だ。事務所は違ったけれど愛川欣也とはやくざの兄弟分なんかやった。大山のぶ代とは「ダイヤル110番」で共演したこともあったっけ。田口計とは何度か共演。城達也とは麻雀仲間。美空ひばりとはラジオで一緒したし、小林修のロ−ハイドはいまNHK衛星で再放送中だが、何の気なしで見ていたら、若くて初々しいオレの声が出てきたよ。ヤッパ鼻声だった。自分の声ってイヤだ。何故か藤村俊二とはテレスク時代以外1度も役者としてもプライベートでも一緒したことがない。恋のもつれから決闘して袂を分けた後遺症か?想いだしていたらきりがない。挙げてきた名前のほとんどは55歳以下の人は知らないだろうナ。


 少しでも稼ぐためにはスタジオを掛け持ちしなければならない。テニスと空手に明け暮れていたガキ時代のスポーツも思うように出来ない。身体がなまる。舞台を目指していたのにテレビばっかり、そんな時覚えたのがボウリング。日本テレビの直ぐ側にあった東京ボウリングセンターだ。取り憑かれた。1961年頃、高田誠に一緒にボウリングの専門誌つくろうよって誘われたのが運の尽きだったのか?気がついたらボウリング屋になっていた。いまからでも遅くはない、遅期を逸したなんてのは人生にないのだ。いまからでも役者稼業をやり直すか?ボウリングと2足の草鞋もいいじゃーないか・・・・


 いま役者の足を洗った30歳から数えて41年目だ。71歳。50歳ぐらいまでは舞台で演じている夢をよく見たものだ。台詞を忘れて絶句している恐怖の夢ばかりだった。ほら、年寄りの昔話が始まったゼ。



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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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