プロ協会前専務理事兼副会長の大久保洪基が逝った。63歳。合掌。


昨年12月に入院したとの知らせを染谷景一郎プロから受けた。「お見舞いに行ったら、やたら元気でとても喜んでくれました。」との染谷からの言でもあり、まだ若い。医学大進歩の現状、そう心配もしていなかった。それに高松に出張していた関係もありそのままになっていた。 正月明けに帰京、やはり心に引っかかっているものもあり、見舞いの手紙を書いた。 「オレが見舞いなどに行くと、余計病状が悪化してはいけないので、手紙で済ませるが、必要とあらばいつでも声をかけてーナ。洪基の一ファンとしては飛んでいくぜ・・・」 みたいな簡単なものだった。未だかって、洪基が文章なんて書いている現場を見たこともないので病状連絡なんて期待もなく、ましてや入院者だ、必要だったら電話が来るだろうぐらいの軽い気持ちだった。残念。


昭和39年だったと思う。38年にオープンしたハタボウリングセンターは予想を遙かに超えて来場客が多く、スタッフ増強が必要だった。多くの応募者から15名を選出、その面接にわたくしは立ち会った。 派手なグリーンの三揃えのスーツ、左足に体重をかけ誰よりも目立ったガキ風がいた。大久保洪基。メカニックからのスタートだった。オープン2年目の冬のボーナス期(?)だった。出社してみるとスタッフ全員いつもと全く違った重苦しい雰囲気。聞くと会社側から冬の(?)ボーナスが出ないとの通達があったとのこと。開場以来ボーナス無しだった。理由は設備投資に予算がかかりすぎたからだという・・・?


 ハタから声をかけられ仕事をすることになったオイラは、ボウラーではあったが経営なんてわからない。ってんでボウラー仲間だった故 井本正忠をハタに引きずり込んでいた。弊社カブスミ スタート当時の専務が井本氏である。当時、時計関連会社の総務担当で、家は染物屋。ハタでは時給500円のバイトだった。労働争議はお得意の分野っうわけで、井本氏のアドバイスで会社側と戦いに入ったのであります。要求が満たされない場合12月22日の創設記念日を記してストライキに入る旨会社側に通告。会社側は切り崩しにかかる。どんどん脱落者が出る。悲しいかな最後まで所信を貫いたのが僅か5〜6人だったか? その中に大久保洪基がいた。なにも口出しをせず、終始寡黙。絶対に引かない。このときわたくしは大久保洪基に惚れた。結局岐阜から社長がお出ましになり、われわれの要求は全面的に受け入れられた。貧乏な洪基に良くメシを食わせ、オンナを紹介し、見合いをさせ、ウチに泊まらせたりした。洪基の気概みたいなものを最大に評価した。43年大久保ハタ退社後カブスミの社員となり市川ボウリングセンターのプロショップを担当する。


 昭和48年の業界最悪の時期、プロ協会もトーナメントが減る一方。なんのアクションも起こそうとしない協会にアンチテーゼを突きつけた。都築理事長にお辞めいただき代わりの会長をいただこうという、いま思えば安易な活動に走った。それが支持を得たのかわたくしメは次年度幹事長に・・・洪基は当然幹事である。2年間担当したわたしメは、テーマである会長交代も果たせず選挙に敗退した。後任幹事長に推挙したのが大久保洪基だった。長い政権だった。幹事長就任の幹事会での大久保の就任挨拶が忘れられない。「強引にいくこともあろうが、それを前提にフォローしてほしい。でなければいま受けたくない。」 口癖にこんあのがあった「親分もたず、子分つくらず」確かに親分はもたなかったが、子分は沢山いた。いまでもいる。それだけ面倒見が良かったのだ。人徳。


 大久保幹事長は事業部長を兼任、専務理事、副会長を歴任。そしていまから3年前、改革選挙で敗れ現在に至っていたというわけである。 都築態勢の大久保とは協会改革で対立した。 都築理事長に辞めていただこうってんで、2回運動をした。1回目はわたしが幹事長のとき矢島純一の紹介で、元岸総理の第1秘書という人に話をしに行った。岸さんに会長を依頼しに行ったのだ。そこには須田開代子、矢島純一、佐藤二六、そして大久保洪基がいたのだ。いまにして思えば成功しなくて良かった。愛すべき大久保洪基だったが、欠点のひとつに酒癖の悪さがあった。いままで楽しく飲んでいたのが一定の量を越えると、突然のごとく変わるのである。「すみさん」って言っていたのが突然「すみテメエ、コノヤロー」・・・  この手でスポンサーを失った。


 組織というものは、知らず知らずに傲慢にならざるを得ないところがある。組織の内側にいるとわからないものだが、外から眺めているとそれがよくわかる。大久保のそんな傲慢さがワタシは気に入らなかった。以後協会のことでは最後まで対立のままだった。特にインストラクター制度だ。個人的には最後まで友人同士であったと少なくもわたしは思っている。 ときどき飲み、だべり、オンナのことでわたしが相談を持ちかけたりしたものだ。 オンナのことでは世話になった。


 いま、中山会長、矢島&鏑木副会長態勢だ。傲慢にだけはなってほしくない。プロ協会はアルブレヒトの言う逆三角形ピラミッド型の組織であってほしい。何故ならプロ協会は正会員のため、ボウラー(フアン)のため、業界のため、センターのためにあるのだから。合掌



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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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