単なる年寄りの昔話か、あるいはまた、語らなければならない歴史的事実かは、受けとり方により違うものです・・・・それでイイのだ。


 1955年(昭和30年)頃だっただろうか、ボウリングを始めて2年目の頃だ。秋元泉は立教の学帽を被っていた。出会いは東京ボウリングセンターだったけれど、一緒に投げたり話すようになったのは、わが国2番目のセンター、1965年(昭和35年)開場の半手動式、池袋ボウリングセンターだった。高田誠の紹介でスポンサー大野氏と会い、わが国初めてのボウリング専門雑誌「ボウリングマガジン」(現BM誌とは違う)発刊の主要メンバーになったのが1966年だった。当時広告会社に勤めていた高田は営業並びに広告担当。秋元と小生は編集担当。初代編集長は私が担当した。第2号からへ全部秋元編集長だった。マガジンメンバーの仕掛け人は、現在NBF理事長白石雅俊、唯一の先輩である。


 今から振り返れば、僅かな期間だったけれど、この時の体験がその後のボウリング人生の基盤になっていると言っていいだろう。立派な道楽本だった。1冊の値段が230円、そのコストが倍以上かかった。このオリジナル本を全巻所有しているのが、名古屋の大澤知昌である。オレに譲れと言っても、これだけは譲れないとわたくしに対するお世辞か、頑として首を縦に振らない。今年の夏には、ものすごい量の“大澤コレクション”を名古屋の本山にオープンさせたいと大澤と一緒に計画中だ。


 秋元 泉・・・・この男、若い頃はどちらかというと粗っぽく、喧嘩っ早く我が道を行くスタイルで魅力あるヤツだったが、BSG入社あたりからか、俗に言うサラリーマン風にだんだんと堕落していく。多分、自分で意識的に押さえていたのだろう。その証拠に、ある一定以上の酒が入ると人間がガラっと変わるのである。それまで「スミちゃん」って言っていたのが、突然「スミテメエこの野郎」になる。これは故 大久保洪基と同じだ。大久保は酒で失敗したとも言える。わたくしも最近少し飲めるようになった。オレも酒で失敗したくなってきているのだ。


 BSGに入るずーっと以前、秋元は三田ボウリングセンターの企画室室長だったし、池之端ドリームレーンの支配人だった。確か1965年(昭和40年)だったと思う。秋元は回顧して言う、当時、石川雅章に顧われて矢島純一に会いに行ったそうだ。高校生だった矢島の投球を見ていっぺんに惚れて、矢島の両親に説得に行ったという。当時、矢島は高校でバスケに専念していた。しかし矢島のボウリングがあまりに素晴らしく将来性を感じた秋元は(石川雅章も同様)矢島の両親に会い説得、三田ボウルでバイトをしながらボウリングに専念させたのである。当時の三田ボウルにはハタボウルと2分する素晴らしいコーチングスタッフがいた。一世を風靡し、後にAMFのインストラクター講師になった園田浩、千葉、青山などという面々だ。粕谷三郎の弟の和男もいた。ちなみに昭和38年創設の我がハタコーチングスタッフはチーフがすみ光保で、井本正忠、武藤喜一郎、伊藤秀夫の面々。プロ1期生の大久保洪基や佐藤則夫、波間章。4期生の田安明などはその頃はまだお呼びでなかった。


 さて、このへんからが歴史の話になるのだろうか。1965年(昭和40年)頃、クラッシック・ボウラーズ・クラブって言うトップボウラーのグループがあった。岩上太郎、粕谷三郎、石川雅章、和田幸二郎、水谷稔、矢島純一、その他そうそうたるメンバーである。挙げた名前は皆JPBAチャーターメンバーだ。このクラッシック・ボウラーズ・クラブのチーフセクレタリーが我が秋元泉。JPBAはこのクラブが主体となってできたと言って間違いない。以前どこかで書いたけれど、1966年(昭和41年)JBCのアマ規程設定をキッカケにして、プロ協会設立の動きが出てきた。それがハタBCのコーチングスタッフだったチーフの小生であり、故 井本正忠である。プロ協会設立趣意書を秋元とわたくしとで書き、BPAJに持参したのがJPBA設立のキッカケだった。当時の事務局長は故、藤岡龍男氏であった。日本プロボウラーズ連盟と日本ボウリング場協会とが一緒になって、日本プロボウリング協会を設立したのである。だから、プロボウラーズ協会ではなく、プロボウリング協会なのだ。ネーミングを間違ったまま現在もきている。そのプロボウラーズ連盟の主体となった面々がクラシック・ボウラーズ・クラブであったのだ。


 こうして我が親友、秋元を振り返ってみると、我が国のボウリングの歴史にとって重要な人間であり、特にJPBAの歴史を振り返った時、この男の果たした役割は、キッカケづくりという意味でも、非常に大きなものがあるのだ。ホワイティ・ハリスが弊社の顧問であったことを先月号で触れたけれど、秋元は設立時の弊社取締役であった。そして、1975年(昭和50年)当時、業界最悪の波が当然弊社にも及ぶ。わたくしは、幹部連中をBrunswick系列に入社させていった。木下達雄であり、秋元であったと思い、そんな年寄りの思い出話をし合っていたところ、酒がある一定線を越えた秋元に、すみバカやろう違うじゃーネーか、と修正されたのであります。これがこの文章を書くキッカケになったと言うわけ。


 言い忘れたけれど、秋元は今で言うイケメンなのである。いまだに女が群がっている。そしていまだにそれを自慢しきりなのである。そして羨ましいことにいまだに独身なのである。そして腹立たしいことに、もしかしたら「オレ近い内に結婚するかも知れない」とうそぶくのである。その女、いや女性知っているのだが、何とヤツとは24歳年下なのである。やられたぜ、オレのは20歳年下。4歳やられた。


 歴史ってのは語り手の都合のいい方向に修正されていくものでありますネ。秋元曰く、すみがBSGに入れたのではなく、当時BSGの伊藤社長からのお声掛かりと言うのであります。そんなこと忘れちゃったのでどうでも良いのですが・・・・。いずれに致しましても、俗に言う腐れ縁と言うのでしょうか、いまだに付き合っているのだ。しかも、新しい事業を興すかなどと話しているところ。いい加減にしろ!


 悲しいことがひとつある。アルコールが一定量越えないと、スミテメエが出ない。出ないと、すこぶる温厚でありすぎるぐらい堕落してしまっているのであります。お互いに。これじゃー我が業界良くなろうハズが無いのであります。会社興したって上手くいくはず無いのであります。でも、奴はやる気満々・・・・。





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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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