1963年(昭和38年)ボウリング教室なるものを自ら担当した。見よう見まねだった。約30年の役者の経験が生きた。それから45年が経過した。そして15年振りぐらいに本山ボウルでボウリング教室を担当している。今5グループ目だ。


実は約7年前、スーパーボウル高松をオープンさせて初めに行ったのが、ボウリング教室だった。高松には当時から結城竜弥プロがいたこともあり、わたくしは厚生年金受給者協会にセールスに行き、招待ボウリング教室の開催にこぎつけた。『第1週目はオレが担当し、見本を示すから、後はオレが書いた教室のマニュアル通りやれ』と言って5週プログラムの第1週目を担当した。10年振りのグループ指導だった。結論を先に言えば、大失敗である。他人には多分解らなかったであろうが、10年振りの担当で自信がなかったわたくしは、早く終わらせたくて先を急ぎすぎ、満足に参加者に意識が及んでいなかったような気がする。何でもないような顔をして、後は結城プロに任せて、黙りを決め込んだ。


インストラクター教育を長年担当してきている手前もあるし、自センタースタッフに対する見本にもならなくてはならないし、外部のセンタースタッフが見習いとして勉強にも来ているし、本山の教室は更にプレッシャーに曝されることになった。基本的には、かつて自分が書いたマニュアル通りにやればいいのだが、何せ何十年も前のことである。記憶に残っているわけじゃーない。参加者を笑わせるところも計算通りになかなかいかない。地が出るのか、つい真面目になりすぎてしまうのだ。ボウリングというアソビを体験、学びに見えているお客様なのに、真面目なわたくしはやはり真面目になりすぎてしまうのだ。楽しくさせねばならないのに、参加者をも真面目にさせてしまうのである。インストラクター講習で、ボウリング教室のやり方の指導を長年やってきたにも関わらず、それが上手くいかないのだ。どうしよう。もうジジイはとっくに引退しなければいけないのか? それではあまりに悔しいではないか。かつては人妻専任コーチとしてならしたというのに。しかも人妻中心の参加者だというのに。悔しいではないか。でもしかしだ、こちとらいろいろと学ぶことが多くあるのには恐れ入るというか、嬉しい限りである。


「集団所属のクリスクロス」ってご存知だろうか? 正直わたくしは全くご存知なかった。ボウリング教室参加の大学教授曰く、(以下は教室受講者が大学の教授だと言うことを知って、わたくしが先生と言ったことからのおしかりのメールなのです。) 「集団所属のクリスクロス」は、丸山ではなく、ベントリーやトルーマン大統領ではない。といったアメリカの研究者からの拝借です。簡単にいうと「Aという集団では先生役の者が、Bという集団に属せば、そこで生徒役にもなる。Aという集団で生徒役の者が、Cという集団では先生役にもなる。教える側と教わる側は、今の日本ではまだ身分のようになっていて、学校の外に出ても教員は「先生」という蔑称で呼ばれますが、昔の生徒以外にそう呼ばれる筋合いはない、と思っています。生徒以外も教員を「先生」と呼ぶのは、教育が行われているのがムラ社会の中であり、「教えること」が「する」の論理でなく、「教員は教員である」という「である」の論理に乗っているせいです。丸山真男「であること」と「すること」の応用でした。


これを壊すのは大変です。教わる側があって、初めて教える側が「先生になります」。子どもを産んで初めて、女性は「母になります」。 「女は母に生まれるのではない、母になるのだ」(ボーヴォワールをもじってみました。) 「先生」や「母」は身分ではなく、機能概念ないし関係概念ということができます。ですから、私の子どもでない人に「母さん」と言われては困るように、私の教える学生さんでない貴兄から、「先生」と呼ばれるのは、大変心外なのです。と怒られたのです。どうですか? 共感なさいませんか? その通りと思いませんか?




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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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