1954年12月、19歳で始めたボウリングは今年で55年目に入ることとなりますね。

わたくしはいままで何をやってきたのでしょうか?
NBF理事長の白石兄とか、岩上太郎プロとかわずかな先輩はいるけれど、わたくしも日本のボウリングの歴史を身をもって体験、みてきた一人といっていいのかもしれません。

 MOJとしてはここらで遺書ぐらいしたためておいても良いのだけれど、
遺書なんて柄じゃーないし年寄りらしく昔話で納めておこうか。  

何故かいままでわたくしは誰からもじじいと言われたことがない。
たまに現ワイフに毒づかれるぐらいだ。
何故ってわたくしには38歳を下に3人子供がいるのですが、誰一人として孫をつくらない。「孫なんてつくったら承知しないぞ」と昔言ったことがあるのだけれど、それを忠実に守ってくれているのだろうか? 
長男は言っていた「子供ができたら自分が遊べなくなるから」。よい心がけだ。
鷲見家はわたくしの代でお家断絶。
 孫がいない所為か爺と言われたことがないのです。
爺とは先月から自分で言い始めたばかりなのです。自分でそう思い始めたから。

振り返ってみて、日本のボウリングの歴史のポイントになるような出来事が色々ありますね・・・ 
そんな大(たい)業(ぎよう)な話はしませんが。  
昭和27年から35年までの手動式時代。この時代を語れる人はすでに数えるほどしかいませんね。  
その当時のピンをわれわれチェリーピンと呼んでいまして、木がむき出しで、チェリーのラベルが直接木に貼り付けられていました。
いまのようにプラスティックのコーティングなどしていなかった。
当時のピンの規格は2ポンド14オンス〜3ポンド10オンスでした。

ボールは確か国産第1号では日本エボナイト製の「フジ」というのだったと思う。
富士山のマークが刻印されていた。  伊藤某(なにがし)というドリラーが東京ボウリングセンターにいて、メカ裏でドリルしてもらったのを覚えています。
伊藤氏は我が国ドリラー第1号です。彼のいとこが我がチームのレギュラーだった。  
モノにこだわりのないわたくしとしては何年か前引っ越しの際に「フジ」は捨ててしまった。いま思うと残念。  
輸入物ですとマンハッタンが中心で人気があった。わたくしはこのマンハッタンマーブルをながいこと投げていました。
JPBA創設記念トーナメントではこのボールで第3位、5万の賞金を手にしました。
後にも先にも賞金はこれっきりだった。残念。 それにしても44年から公式試合含めて2年間しか投球していないわたくしのライセンスが何故現在でも「トーナメントライセンス」なのでしょうか? 曖昧というか、いい加減というか・・・ここにもJPBAの問題点がある。

 手動式時代、われわれ投げるとき親指の穴に100円札を1〜2枚突っ込むんですね。そしてピンを立ててくれるピンボーイに対しガターに転がす。つまりチップです。
げんきんなものでこのチップを出すか出さないかでセットの早さが違っちゃう。  オフセットの時は自分のボールをファールラインのところに置いて待つ。ピンボーイが直してくれる。
ピンボーイともよく喧嘩したものでした。セットが遅いってんでピンボーイが身を隠す前に投げちゃう。などが主な喧嘩の原因。ピンボーイは余計わざとのろのろセットする。
頭に来た客は何とかピンをピンボーイに直接当てようとする。ダブルウッド型にピンが残るとぶつけるチャンスだ。そんな戦いがよく繰り広げられていたものでした。 

当時東京ボウリングセンターの近くに青山外科という病院があってよくピンボーイが担ぎ込まれたものでした。一丁あがりなんて言って。  わたくしは紳士でしたから決してピンをぶつけるようなことはしませんでしたが・・・  

ところで急に思い出しましたが、昭和30年の後半でしたか、朝霞のキャンプドレイクに出入りするようになって気がついたのですが、朝霞のキャンプにはノウスとサウスの2ツのキャンプに14レーンずつのボウリング場がありました。どちらだか忘れましたが、1レーンだけスパット類が無いレーンがあったのです。時々投げましたがとても投げにくかったことを覚えています。  スパット類を考案したのがジョー・ジャクソンという人なのですが、歴史的にみてそんな昔ではないようです。  
ルールにも「標識類を印すか埋め込むことができる」と書かれています。JBCルールもNBR(日本ボウリングルール)もいまだにそのままです。ということは現在でも標識類がなくてもルールには違反しないということになりますね。

 昭和35年でしたか、ボウリングを風俗営業にしようという動きが国会で持ち上がりました。風営法になればスポーツとしての将来はないというのでこの翌年、京都青年会館で我が国初めてのボウリング場支配人会議が開催されました。
これが現在の日本ボウリング場協会の前身です。ここに出席できたのはいま思えばよい経験でした。  こんなことを言いますとまた怒られそうですが、いままでのような場協会の役割はすでに終わったとわたくしは思っています。大きな変革もしくは出直しが必要でしょう。これは場協会に限ったことではなく業界全体にいえることだと思うのです。
特にJPBA。特にそのなかのプロインストラクター制度。    その要因と対策は追々語るとして、

 さて、昭和31年に21歳で結婚したわたくしは昭和36〜7年頃には立派な髪結いの亭主でした。、役者でささやかに小遣い稼ぎはしていたものの、基本的には親に建ててもらった200坪ぐらいのホンダ技研寮を経営していました。全てワイフにお任せ、わたくしは朝起きるとボウリング場行き、昼過ぎに仲間を連れて帰宅、即座にポーカー・・・
そんな自堕落生活が毎日続いていました。  
前々ワイフの母方の祖父は岡本櫻といって東京ガスや東邦ガスの創設者で財界では有名人。名古屋では桜が地名になっているほどです。  

同父方の祖父は渡辺龍聖といい、名古屋大学経済学部の前身校である名古屋高等商業学校の初代校長。この龍聖の息子が前々ワイフの父親なのだけれど、あるとき彼はわたくしのあまりのだらしなさを見かねて呼びつけたのです。 「キミそんなにボウリングが好きなら新しくできるボウリング場で働いてみないか?
 名古屋御園座にボウリング場ができるのだそうだけれど、御園座の長谷川社長の仲人をやってきた、キミのことを話したらいつでも来て下さいとのことだった。ここらで生活を切り替えて単身赴任で名古屋に行ったらどうだ。」と言って立派な案内パンフレットを手渡してくれた。 ボウリング場だったら、なにも名古屋くんだりまで行かずとも自力で何とかできる。てな訳で38年8月にハタとの契約となった。それがブランズウィックとつながることとなり、現在に至っている。
 あのまま名古屋御園座に入っていたらどうなっていただろうか? 人生にもしもは無意味、そんなこと考えても無駄だけれどわが人生大きく変わっていたことは確かですね。  

それにしても結婚否定論者のわたくしは3回も結婚してしまった。しかしわたくしはなんてオンナ運が良いのだろうか。この3人のワイフとわずかばかりの女性達、全て最高の女性だ。いまでも全員と最高に仲が良い。その内我が女性遍歴でも語ろうか。
 しかしだ、彼女達の立場にたてば、最悪のオトコ運だったろう。ごめんネ、ゴメンネ。  55年はながいのか短いのかわからないけれど、わたくしの最後の仕事は現在の本山・小郡・宇部を軌道に乗せることと、スタートさせたJBPをなんとしてでも成功させることにあります。あと7・80年程度はかかるのだろうか?
よしオンナ運は良いことだし、楽しくあと80年ばかり頑張ろうか・・・
次ページ「JBP初年度活動報告」
すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。株式会社ジャパンボウリングプロモーション会長。
1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

BackNumber
このページの先頭へ