トーナメント、つまり<投げる>行為と、インストラクションつまり<教える>こととは似て非なるモノであるとわたくしは考えます。確かにオーバーラップするところはありますが全く違うものでしょう。
メジャーリーグには野球現役経験が全くない監督が存在すると聞きました。日本でいう監督をメジャーリーグではヘッドコーチというとか・・・

 しかし、現状を含めまして過去から現在までのJPBAをみてみますと、そのあたりたりがぐじゃぐじゃです。わたくしにも責任が大いにありますが、根本的なところでJPBAの歴代の役員の認識のなさに要因があります。概してトーナメントにしか目がいっていない。

以前からわたくしは思うのです、プロボウラーズ協会とプロインストラクターズ協会と2分化すべきです。民間会社で言うところの分社化です。
すでにゴルフやスケートはそうですし・・・  現状のプロテストはトーナメントプレイヤーテストのみでありますし、“オレは投げるのではなく、教えたいのだ”という人間もトーナメントテストを受けなければならないし、ボウリング場勤務上ワッペンが欲しい人も同様です。  トーナメントテスト合格者は全員C級インストラクターの講習が義務づけられる。
これも全くおかしいし何故かがわからない。
インストラクターかトーナメントかあるいは両方をチョイスできるようにすべきだと考えます。  協会はトーナメントプレイヤーも常識的知識が求められるのでC級を当てはめているのだと言うのですが、これまたインストラクターを馬鹿にした話であり、常識的教育をしたいのであればそのためのプログラムを別につくるべきだと考えます。
 2級→1級→C級→B級→A級→マスター それとは別にコーチングプロ・・・ITSなどという訳のわからない区分ができあがっています。  最近部会では2級と1級はプロにあらずと言い出していますが、つい1〜2年前には2〜1級もプロとしてのシールが各センターに配布されていました。2〜1級の人がプロにあらずということをどれだけ理解し、認識しているかはわかりません。たぶん伝わっていないでしょう。
現状1〜2級を保持し、プロインストラクターという肩書きで仕事をしている人も数は少ないと思いますが存在しているのは事実です。

 現状JPBAインストラクター部会の重要ポイントの一つに、文科省による指導者ライセンスの習得があります。部会講習関連はそこにしか関心が行っていないという現状に見えます。われわれプロインストラクターがそのライセンスで飯を食っていくためにはおおきな戦力の一つとなるからわたくしは賛成です。
 いま大切なことの一つにプロインストラクターの雇用の確保があります。そのための裏付けの一つになります。

閉鎖が続く現状、プロの雇用が加速的に落ち込んでいます。はっきり言えば現場に役立たないからです。現状のプロテストが、現場でバイトするためのステップに成り下がっているからです。プロとしての認識が協会にも部会にも欠如しているからです。
本当に現場に役立つプロインストラクターがいま必要なのです。
チャンスなのです。そこに目が向いていない。  今こそチャンスなのに、残念ながら部会にプロ意識が欠如しているのです。

 更に、トーナメントプレイヤーの現状は、韓国に追い抜かれ、PBAには全く追いつけない現状があります。何とかしようという意識が部会にないし。協会にもないような気がします。ここにこそインストラクター部会の意識があるべきだと考えるのです。

 この3月にJPBAは役員改選が行われました。部会も新しいメンバーになったと思います。しかし、残念ながら思うのは、新しいメンバーも、今までの流れを下敷きになぞっていくだけと想像します。過去全てそうでありましたし、各支部も本部を下敷きにしているにすぎないのが大方の現状です。これからも改革はやはりできないで進むでしょう。
 なぜでしょうか? 過去を下敷きになぞっていった方が楽だからでしょうか?
いずれにせよ2ヶ月に1回の会議では無理です。一昨年副部長とわたくしは、約10ヶ月をかけて改革案を作成、部会で承認され、理事会に提出。そこでもできるところから着手ということになったはずですが、部会はなぜかそれを無視。理事会も問題としていない。つまりインストラクターのあり方にだれも目が向いていないと言うことです。

 ここで我が国のインストラクターの歴史を振り返ってみましょう。
 昭和40年だったと思いますが、AMFが園田浩を講師にしてインストラクター講習をおこなったのがはじめだったと記憶しています。当時園田は全日本や東日本のチャンピオンでプレイヤーとして飛ぶ鳥を射落とす勢いでした。
 昭和41年に日本ブランズウィックが当時PBAの会長であったバズ・ファジオを招聘してインストラクタークリニックを行いました。
 昭和42年にホワイィー・ハリスによる講習で、その後、昭和44年より昭和51年までわたくしすみ光保が担当しました。
 当時のNBCJは場協会、同業界、NBF、JLBC、ABBF、商工会の6団体で組織されていました。
 昭和50年NBCJはインストラクター講習は一メーカーで主催するより、NBCJで行うべきであるとの見解を出し、ブランズウィックもそれに同調しました。すでにブランズウィック以外は中止していました。
 日本における講師選定のため、NBCJはアメリカからビル・ブネッタを招聘、15名の候補を田町ハイレーンに1週間缶詰にして講習を行いました。
15名はそうそうたるメンバーでした。園田浩・高田誠・宮田哲朗・粕谷三郎・和田幸二郎・田口勝彦・石川雅章・その他ボウリング場社長、支配人など。そしてわたくし・・  最終日テストが行われ何故かわたくしがトップになり、以後NBCJの講師を担当することとなったのです。
 使用するテキストも昭和54年にわたくしが執筆し、55年よりNBCJ主催でインストラクター講習を行いました。

 さて、17年前にNBCJはプロ協会にこのインストラクター講習をスライドさせることとなったのです。  わたくしは大反対を唱えました。なぜならNBCJのそれはボウリング場スタッフ対象の講習でしたが、プロ協会にスライドした場合、すでにNBCJライセンスを保有している者、当時約700名はプロインストラクターとしてJPBAに登録される、というものでした。  しかも、テキストはNBCJと同じものを使用。約1000冊NBCJからJPBAに贈与され。
講師もNBCJと同じすみ光保とNBCJで後からわたくしが推薦した宮田哲朗。
 対象がボウリング場の従業員が中心だったものをそのままプロに当てはめる。ここに問題があったにも関わらずそのまま実施してきてしまったのです。わたくしは反対を唱えたのですが、プロ協会は年間700万の増収になるから実施という当時の専務理事の見解と、わたくしが担当できるという目先のことできてしまったのです。いまとなって自分の無責任さにあきれ嫌気がさしています。

 わたくしが体調を崩し講師からの引退を表明、後任には各地区より部会が選んだA級ライセンサーを任命。結果良い講師とダメ講師とが混在しています。  
 さてどうしたものでしょうか?  ボーダレス時代。いまやプロとアマとの境界線も曖昧です。
だからこそわれわれはプロとしての意識を強く持ち、フアンのために業界のために自分のために努力していかねばならないと思うのです。

 プロとは「差で勝負ができる人」だとわたくしは考えております・・・

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すみ光保

すみ光保(すみみつやす)

■1935年東京都生まれ。株式会社スミ代表取締役。株式会社ジャパンボウリングプロモーション会長。
1967年にライセンスNo.4第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、VJボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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