1952年(昭和27年)わが国最初の民間ボウリング場「東京ボウリングセンター」が誕生して以来、今日まで54年間、わたくしの印象に深く刻まれた数々の優れたプレイヤーや仲間を振り返ってみたい。と、思ったツーわけであります。その数50人は下らない。とても1回で済む話じゃーない。そこで間を挟みながら思い出すままに記していきたいと思っております。
わたくしが生まれて初めてボウリングを体験したのが、1954年(昭和29)ですので名選手との出会いに、時代のズレはまだ無いのであります。矢島などまだまだ現役なのだから。それにしてもわが国の全ての業界は、功績ある、また名はなくとも重要な役割を果たした先人達を何故こうも軽視するのでしょうか? 例えば米国の野球などと比べてみてください。わたくし自身すでに過去の人になってしまっているせいか、イヤそんなこたァーない、まだオレは現役だからこそ、そう強く感じるのであります。以下順不同で何回かに分けて記していきたいと思います。
武藤 喜一郎(故人)
東京ボウリングセンター建設のおり、その水道工事を担当した人のいい最高のオヤジだった。わが国におけるボウラー第1号なのかも知れない。わたくしの先輩でもあり、岩上太郎のコーチ役でもある。小柄なカラダで、バックスイングをはるか頭上にまで上げる今流の投法で脅威をさらった。昭和40年の大阪吉本ボウリングセンターで行われた第2回全日本選手権大会で、我々は武藤喜一郎を中心とした4人チームで優勝を果たした。わがチームビックフォーの中心メンバーだった武藤喜一郎は今やもういない。
加藤 義秀①
株式会社ボウリングマガジン昭和36年設立。社長大野、経理担当田口、初代編集長オレ、広告担当高田、2巻目以降編集長秋元、デザインレイアウト田中なんていう面々で、日本で初めてのボウリング専門誌を発行した。その時の事務所が当時の日本ボウリング協会(JBC)の事務所であった。渋谷区電業ビルの地下を無料で借りた。その当時の日本ボウリング協会の会長こそが加藤義秀氏であった。加藤さんは、増泉辰治氏とともに、昭和23年米国よりのボウリング設備輸入法人として日本ボウリング協会JBCを設立したのである。現在のJBCが出きる遙か前にJBCは存在していたのです。わが国最初のボウリング専門書籍「ボウリング」の著者でもあり、わが国最初のボウリング場東京ボウリングセンター初代代表でもある。一昨年101歳で亡くなられた。加藤氏が99歳の時に白寿の会を渋谷フレンチの名店シェマツオで行った。満面の笑みであった恩師加藤義秀氏が忘れられない。この人がわが国にボウリングを導入したのである。日本ボウリング界の恩人だ。
渡邊保
現アメリカン ボウリング サービスの代表取締役会長だ。昭和36・7年頃だったと思う。渡邊さんは加藤義秀さんの事務所、つまり、我がボウリングマガジンの事務所でもあるところに、大量のコロンビア300プラスティックボールを持ち込まれたのであります。初めてお目にかかるグレーのプラスティックボール。キレイでしたね。使ってみたかったですね・・・・。渡邊さん曰く、「このボール3ヶ売ってくれたら1ヶあげるよ」売りましたねェ。秋元も高田もわたくしも、初めてみる美しいプラスティックボール使いたさに一生懸命に売ったものです。ABSのHPを拝見しますと創設○○○○年ですからちょうどその頃でした。渡邊会長は、わたくしより一回り上の大先輩。良く麻雀をしたものでした。いまでもお付き合いさせていただいていますが、数少ない大切な先輩です。
岩上太郎
ボウリングの殿堂が出来たら、この男をまず始めに飾らねばならないのである。それが岩上太郎なのであります。歳はわたくしと同じだけれどボウリングキャリアで先輩だ。いまだに大食い。駅の階段なども2~3段飛ばして駆け上がる体力。博打でもオンナでも食うことでも昔と変わりなく強い。ライセンスナンバーからいえば次ぎに逝くのは3番の岩上太郎なのだが、どうやら3番を飛び越えて4番になりそうな気配であります。誰に対しても絶対に先輩面しないところがステキだ。いまでも月一の割合で麻雀して遊ぶ。昔ボウリングではよくカモられた、麻雀では互角か? だから割に合わない。わが国第1号300ボウラー。トーナメントプレイヤーの先人だ。
白石雅俊
ボウリングマガジン発行の時には世話になった。とにかく世話好きな人である。東京ボウリングセンター時代にピンボーイを岩上太郎などとやっていた。加藤義秀さん指導の元にボウリング教室インストラクターを務めていたっけ? 日本におけるインストラクター第1号が加藤義秀氏だったら、その後に続いたのが白石雅俊氏である。現在NBFつまり日本ボウラーズ連名理事長である。白石兄貴にはよく怒られる。「すみちゃん、もっと積極的に業界の集まりに顔を出せよ」いくら先輩に言われても嫌いなんですねー、そんな集いに顔を出すのが。何故だろう? その内考えてみよう。この方わたくしより確か4~5歳年上なのです。その記憶力たるや驚くべきものであります。この方が元気な内にわが国のボウリングの歴史を取材しておくべきと思うのですが・・・・。
大澤知昌
このオトコのお陰で名古屋本山ボウルがオープンできるのであります。昭和38年に名古屋で初めてのセンター「みそのボウル」が大澤の業界スタート。担当はプロショップだった。米国にまで行ってミツツチヤマに学び、アシスタントも務め帰国後ドリラーとして徐々に名前をとどろかせる。特にブランズウィックスポルト時代には年間5500万以上の売り上げを記録し業界の注目を得た。さらにメンテナンス留学をし、イースタンスポーツ時代にはジャパンカップのレーン責任者としてPBAレーンづくりを行いJPBAのメンテナンスチーフも務める。大澤の評価はそればかりではなく、その営業力の評価がデカイのであります。6月11日よりこの凄いオトコ大澤知昌がわが社の営業ディレクターとして就任。力強い限りです。名古屋にお越しの時は是非本山ボウルで大澤にお声をおかけいただきたいと思います。
投稿者プロフィール
-
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。