楯突く、皮肉る、揚げ足をとる、悪態つく・・・・ これらのオレの性癖を考えてみるに、歳をとって、病気をし、どちらかというと孤立無縁気味のなせるワザか? 他人とのコミュニケーションも格段と減少している所為なのか?「へぼせん」というボウリング好きの輩のブログに書かれてしまった。

「すみ光保御大の今月のエッセイを読む[07年2月6日付け] ⇒ 相変わらず、 吼えておられるぞォ。 まだまだ若い。 まだまだヤル気だ。 見習いたいものだ。」 テメエじゃ吼えているんじゃなく、当然に当たり前のことを言っているだけだと思い込んでいたのだけれども、違うのか? ヤッパ加齢から来る寂しさがなせることなのか? てんで今月も吼えてやろうバッキャロー・・・・!!

2月号でJPBAインストラクタープロの問題点にふれたので、ついでに「プロボウリング協会」という表記について一言ブッたれたいと思う。 プロボウリングってどんなボウリングなのだ? プロボウラーといえば判るのであります。プロフェッショナルボウラーズ協会なら判るのであります。 しかしプロボウリング協会ッていう表記がわからネー。 プロボウリングってぇのはどう考えてもどんなボウリングなのかがわからネー。 日本プロボウリング協会 [JPBA] 発足の前年、つまり1966年に、JBCルール第23条が改正になった。(以前書いた記憶があるけれど) 記憶をたどるとこうだ。

23条「次の諸項に該当にする者は、本協会の会員になることができない」
その第3項「ボウリングを他人に教授し、金銭もしくはそれに等しい報酬を受けている者」

つまりボウリングを教えることによってメシ食ってるヤツはダメっていうわけだ。 あたしゃー当時ハタボウリングセンターでコーチしていたので当然この規定に引っかかる。 「日本ではまだ早いかもだけれどプロ協会をつくるべきかナー・・・」なんて思って仲間と話し合っていたら、当時PBAの会長だったバズ・ファジオが日本ブランズウィック [NBK] の要請で、わが国はじめてのインストラクタークリニックを担当しに来日した。 幸運にもバズのボウリング教室というフィルム制作の監修役が回ってきたのであります。 バズに相談した。 バズはPBA設立当時の話をしてくれて、「すみ、絶対プロ協会をつくるべきだ。オレが協力してやるからやれ」と励ましてくれたのであります。 勇気100倍、わたくしがハタに引きずり込んだ故井本正忠、昔のボウリングマガジン当時の仲間、秋元泉等と早速行動を開始した。まず“プロ協会設立趣意書”の作成からだ。 企画書なんてつくったことのないわたくしと秋元泉、苦労して書き上げた(?)それを石川雅章なんかに見せて相談しながら行動に入った。 先ずスポンサー探しだ。 真っ先に飛び込んだのがコカ・コーラ ボトリング。 拙い企画書を見せながら熱っぽく語った。 その場でOKの意向を得ることが出来たのであります。 このときの企画書が故粕谷三郎の資料からでてきたのは懐かしく嬉しかった。 物持ちの良い粕谷三郎に感謝、ありがとう。 いまそれは染谷景一朗に預けてある。 恥ずかしくいま見るのもイヤだから・・・・。

コカ・コーラからの帰り道、同行者である井本正忠とのやりとり。「コカ・コーラをスポンサーにしてプロ協会を創ったらペプシ・コーラには永久にそっぽを向かれるな」 てなわけで日本ボウリング場協会 [BPAJ] に足を運んだわけであります。 BPAJの当時の会長が故藤岡竜也氏。 事務局長が故加藤義秀氏。 BPAJをバックにトントン拍子では無かったけれど設立の準備に入ったのです。 さて、ここからが肝心だ。 プロボウラーとBPAJとが一緒になってプロ協会を設立することで一致、合意。 まずカタチのうえでプロボウラーズ連盟を創り、その連盟とBPAJとでプロボウリング協会を設立しようということになったのであります。 ここにプロボウラーズ協会ではなく、プロボウリング協会にならざるを得なかった要因があるのです。 仕方なかったといえばそうなのですが、プロ協会がBPAJと離れて独立したときに、英文法上でも間違いのプロボウリング協会表記を直すべきチャンスだったのだと思うのですが、誰の賛同も得られなかった。 3年前の協会改革時でも主張したのですが、末梢的なことと思われたのか、わたくしの人徳の無さのなせるところか(ここが本当)、誰も振り向いてはくれなかった。 というわけでいまだ理屈が合わないネーミングのまま現在も日本プロボウリング協会のままできているのであります。 国際社会時代にアラ恥ずかしい。 さて、チャーターメンバーをどのように決めたかだが、下記3ッの条件のどれかに当てはまる者をプロと認定しようということとなった。

①メインタイトルホールダー(全日本選手権者、東西選手権者)
②単一以上のリーグでAVG190を越えている者(30ゲーム以上)
③ボウリング業界に功績のあった者

この③がくせ者だった。 全国のボウリング場にこのお知らせを流したところ、確か80名以上の応募があった。①と②の基準で選んでいったら17名が合致。 ライセンスNo1だった伊藤清久とNo.2だった井本正忠が合致しない。 井本はプロ協会設立功労者ということで③に該当でOK。 伊藤清久は③の何処でOKとなったかは思い出せない。 こうして19名のチャーターメンバーでスタートしたのであります。ついでに、このときのライセンスナンバーは歳の順だ。 3番が岩上太郎、4番がオレだ。 19名のプロで日本プロボウラーズ連盟を創り、初代幹事長に粕谷三郎。副幹事長がオレ。 そして日本ボウリング場協会とこの連盟とで「日本プロボウリング協会」をスタートしたわけよ。 初代理事長は 都築俊三郎(当時は会長ではなかった)。 こんな話はすでに歴史物になっちゃっています。 歴史ってやつはとかく記録者に都合良く書かれるのでわたくしは信用しないのですが、わたくしも人生そろそろ最終章に入っており、体験者のオレぐらいしか書けネーだろうッてんで、ここに謹んでしたためたというわけです?

オイラに都合のいいように書いていないつもりだけんど、きっと異論があるヤツは居るんじゃーねーかネ・・・・ ライセンスナンバー1の伊藤清久も、2の井本正忠も、粕谷三郎も、藤岡竜也ももういない。 次に居なくなるのは、順番で言えばライセンスナンバー3の岩上太郎だけれど、悔しいことにヤツは驚くべき元気さだ。 ヤツをスキップして次ぎはオレの番だろう。 死後は無。 どう歴史がアレンジされようがオレの知ったことじゃーネーよ。 現にBPAJが作成した歴史本は、ボウラーの視点が全く欠落していて、とにかくウソが多いのヨ。

投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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