藤倉 千鶴子
 会うのは25年振りぐらいになるのだろうか? 藤倉が本山に尋ねてきてくれた。昭和45年だった、わたくしは御園ボウルでBrunswick主催のインストラクタークリニックを担当していた。そこに女子プロ2期生に合格したばかりの藤倉が受講のために参加してくれた。参加者のために自ら進んでお茶を入れてくれたり、資料を配ってくれたりの手伝いをかいがいしく行ってくれました。それを観察していたBrunswickの責任者である倉田PR課長はすっかり藤倉を気に入り、Brunswickと契約したいがどうかとの打診がわたくしにあった。異論があるはずがない。てなことで藤倉とは約4年同じ釜のメシを食った。家族ぐるみでのつき合いだった。業界全盛期、お互い若かかった。今でも若い。大澤と3人で何十年ぶりかでメシを食った。楽しかった。ちなみに藤倉は中山律子に続く女子プロ第2号のパーフェクトボウラーだ。

田安 明
 現在、名古屋では1番のプロショップBANの経営者、坂野忠憲氏と初めて会った。わたくしは初めてと思ったのだが、15~6年前の彼が田町ハイレーン時代に、わたくしのインストラクター講習を受講してくれていたとのこと。そして何よりも田安明プロに可愛がってもらったとのことがわたくしの胸を突いた。弊社の社員だった田安はわたくしより10歳以上若いはずだったが、その価値観は20年以上古かったといえよう。先輩であるわたくしにどれほど尽くしてくれただろうか? 当時、世田谷の自宅で大雪の為にスリップして車を出せないでいたわたくしは、すぐ田安に電話する。明け方の4時にだ。池袋に住んでいた田安は道具を持って直ちにタクシーで駆けつけてくれた。そんなことが何回あっただろうか? 田安の名前が出るたびに胸にきて会いたくて堪らない。今、田安がいたらどうしているだろうか?

山田 耕一
 華麗な投法といえば数多くの優れたボウラーを思い出すことができる。石井弘であり、和田幸二郎、女子プロだったら石井利枝か。(わたくしが思い出す例は古すぎるのは承知のうえです)しかし、なんと言ってもフルローラー山田耕一である。45年前のボウラー達には名前を売っていたけれど、わたくし同様強いボウラーではなかった。華麗さ故の知名度だったのかも知れない。ムサシノ工芸というスクリーン印刷の会社のオーナーで金回りが良く、日本で始めての黒龍ボウルの高田誠プロショップのスポンサーになったりしていた。我が国最初の業界誌「ボウリングマガジン」の表紙のデザイン担当は山田耕市だ。麻雀、ポーカーもゴルフも強かった。今頃シンガポールか箱根かどこかの別荘で悠々とゴルフか何かで遊んでいるだろう。

岩上 太郎
 「300点ボウラー大いに語る」が我々のボウリングマガジン昭和38年創刊号の特集だった。主役は我が岩上太郎と故粕谷三郎である。この時代なんといっても岩上がトーナメントプレイヤーの第1人者。誰も岩上には勝てなかった。矢島純一は岩上に次ぐ時代のプレイヤーである。わたくしの判断では少なくも昭和44年(1969年)頃までは岩上太郎の時代であった。ボウリングの殿堂が我が国にもできたら、真っ先にこの男が飾られるべきだと思っている。技術的にどうしても敵わない。そんな岩上に憧れたものだ。そのうち彼は座間キャンプのチームからスカウトされ、米軍のチームで活躍した。羨ましかったですね。麻雀も強かった。ただ、ポーカーだけはわたくしのカモだった。利口な彼、つまりガミはポーカーに関してはわたくしに寄り付かなくなった。ボウリングでわたくしからカモり続けていたというのに。

和田 幸二郎
 昭和36年にAMFのオートマティックピンセッター第1号センターが「後楽園ボウリングセンター」だったと記憶している。ある時、「東京ボウリングセンター」がリサフェースということで和田幸二郎と水谷稔の2人が練習に来ていた。当時、わたくしは主たる練習場を昭和35年に我が国2番目のボウリング場「池袋ボウリングセンター」に、東京ボウリングセンターから移していた。後楽園に到着した時、すでに和田と水谷は練習の最中だった。少し離れたレーンに入って観察したものだ。スゲー上手い奴がいるナーという思いだった。TBCでも見てはいたが。和田と親しく話すようになったのは、わたくしが幹事長時代粕谷と対立。それを修復しようと努力してくれた。それ以来のつき合いである。

高橋 克巳
 「オリンピック級の射撃の選手が、ターゲットを狙い、撃とうと決断してから引き金を引くまでの間には、0.02秒の誤差が生じる。ボウリングにそれを応用すれば、オリンピック級にはほど遠いキミは、バックスイングのトップでリリースを意識しなければならない。」なーんてことを言って故 高橋克巳は教えていた。彼の生徒はみんなファールラインの手前でドーン、ドーンとドロッピングだ。プロ育成で彼と競っていたわたくしは密かにほくそ笑んでいたものであります。ところがだ、段々日が経つに連れ高橋の生徒は徐々にリリースポイントが前方に移動。素晴らしいリリースをするようになっていく。慌てましたネーわたくしは。高橋門下優等生にアトムこと長原京子がいる。

福地 寿一郎
 国分寺パークレーンの初代支配人である。国分寺にはよくスタッフ教育に行ったものである。ある時、林社長と福地支配人に呼ばれた。国分寺パークレーンが独自に女子プロを育成したい。協力をしてほしいということであった。朝日新聞に4段か8段で女子プロ希望者を募る広告を出した。コーチはハリー・日暮、高橋克巳、そしてすみ光保。トレーナーが前田新生。この方は当時陸上のオリンピックコーチでもあった。わたくしを含めて(?)そうそうたるメンバーであった。80名以上の女子プロ希望者が集まった。3名のコーチは4人ずつの生徒を選ぶ。いわばコーチ同士の競争でもある。私は可能性で選ぶ。高橋はコネ。ハリーは顔で選んだ。自慢するわけじゃーないけれど、イヤ自慢する訳だけど、1年未満で合格させたのはわたくしの教えた2名だけだった。自慢に気をとられ福地に触れる余地が無くなった。

投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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