まもなく8月、アテネオリンピックが開催される。
アメリカン・ボウリング・コングレス[ABC]がスタートを切ったのが1895年。その翌年の1896年、クーベルタン男爵の提唱によりスタートを切ったのが近代オリンピックだ。ボウリングが1年早い。

1896年の近代オリンピック第1回の参加国は、20ヶ国前後。参加選手200名足らず・・・・選手といっても貴族階級の者ばかり。芸術だとか、スポーツは暇のあるところから発達するもんね。クーベルタン曰く「オリンピックとは、それは参加することに意義がある!」 今はどうか?「オリンピック、メダルこそ命なり!」 勝つという目標が目的にすり替わり、本来の目的が見えなくなっている。政治に利用される。まさにナショナリズム高揚の場と化している。21世紀のこの時代に・・・・。

ブランデージ会長時代までは[アマチュアリズム]が貫かれていた。ブランデージ自身が貴族だもんね。貴族は自分の手を直接汚しては金を稼がない。みんな部下や奴隷にやらせて金を稼ぐ。自分の行為が直接金に結びつく、これは貴族にとってあるまじき汚い行為なのである。ここにアマチュアリズムの源流があるのではないか・・・・? アマチュアリズムもすでに時代遅れだ。

ブランデージの次の会長が、キラニンだったと思う。キラニン時代には、中距離ランナーの覇者セバスチャンがいた。セバスチャンはある時キラニンに言った。「国民はわたくしに期待を寄せている。わたくし自身、自分のもつ記録を更新したい。しかし、現状の記録を維持するには1日6時間の練習が必要である。さらに記録を更新するには最低1日8時間の練習が必要だ。そんなにたくさん練習をすれば仕事に差し支える。生活できない。食えない。芸術家はたとえジレッタントであろうが、自分のファンに援助してもらうことに誰もが疑問をもたない、芸術家に許されてスポ-ツマンに許されないというのはおかしいのではないか?」キラニン時代アマチュア憲章が除外される。

さて、汚職にまみれたあの嫌らしいサマランチ会長時代になる。
サマランチは言う。「オリンピックとは、それはトップアーティストの祭典である」 クーベルタンの精神とますます距離ができていく。今やオリンピックはプロの活躍の場と化しつつあるようだ。

プロとアマチュア、オトコとオンナ、第1次産業から第3次産業という区分け、全てにおいての境界線が曖昧になっている。まさにボーダレス時代だ。プロ選手がオリンピックに出ていくことは別に問題ではない。問題なのはメダル至上主義だ。近代工業化社会の利益至上主義、拝金主義につながるものを感じるのはわたくしだけだろうか? メダル至上主義、つまり勝利至上主義の行き着く先はドーピングである。筋力増強剤である。地球をぶっ壊した利益至上主義と同じ次元だ。ドーピングは肉体をぶっ壊す。そこまでして勝ちたいのか?

だがしかし、日の丸の掲揚とともに日本国歌が流れ、日本の選手がメダルを手にするとき、何故かわたくしは胸が熱くなり、思わず目頭を押さえてしまう時があるのは何故だろう? 祝日や卒業式の日の丸や国歌を目の敵に嫌うわたくしなのに。そうだ、わかった、わたくしは日本人なのだ・・・・?

投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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