日本プロボウリング協会ができた頃

1964年[昭和39年]の5月17日に、第1回全日本選手権大会が東京ハタボウリングセンターで開催された。主催は、全日本ボウリング協会[JBC]。この前年の1963年[昭和38年]、東京タワーボウリングセンターで同じく全日本選手権大会が行われている。この時の主催は全日本選手権大会実行委員会でありました。つまりJBCは設立されていなかったのです。競っていた2つのボウラー団体が大同団結し全日本選手権大会実行委員会を組織し、それが母胎となって1964年のJBCスタートのきっかけになったのです。第2回の全日本は大阪吉本ボウリングセンター1965年。第3回が東京フェアレーンズで1966年[昭和41年]。現在いずれも無いのが寂しいです・・・ わたくしはJBC設立発起人の一人でした。第1回の全日本の時、渉外担当並びに競技担当役員、そしてハタボウリングセンターのアドバイサーでした。渉外担当役員ですから、記念すべき第1回はオレんとこでやろうってんで役得、ハタボウリングセンターで開催される。

さて、1966年[昭和41年]のJBC総会において、規約の改正が行われた。今回言いたいのはここのところ。

{JBC規定第32条3項目 = 次の諸項に該当するものは本協会の会員となることはできない。その3 = ボウリングを他人に教授し、金銭もしくはそれに等しい報酬を受けている者}

サー大変、わたくしはハタボウリングセンターでコーチングスタッフチーフとして働いていたわけです。その時のスタッフに井本正忠、佐藤則夫(現リタイア)、波間章、大久保洪基、そしてわたくしと、プロチャーターメンバーが5名もいたわけです。これは誇れますね。ちなみにハタボウリングセンター出身のプロは50名を越えています。JBCでボウラー活動ができなくなる。まだ早いかもしれないけれど、日本においてもプロ協会をつくるべきではないか? と考えた。ちょうどその頃、アメリカのプロボウリング協会の会長でもある、わがバズ・ファジオが日本で初めてのインストラクタークリニック担当のために、日本ブランズウィック社の招聘で来日した。ラッキーなことにわたくしはバズのアシストとしてクリニックを担当していたのです。

日本プロボウリング協会設立の相談をバズにしたところ、「スミ、決して早すぎることはない、オレが手伝ってやるからプロ協会を創れ」ってんでPBA設立の苦労話なんかしてくれました。心強かったですね。そこで井本、岩上、石川(現会長)、セクレタリーの草分け的存在の秋元泉などに声をかけて、日本プロボウリング設立委員会をつくりました。自ら委員長を名乗り行動を開始する。いろいろ紆余曲折があったものの、少なくともこの動きが現在のプロ協会スタートのきっかけをなしていると、自負しているのであります。 ちなみに、いま一期生と言われていますが、正式にはチャーターメンバーと言います。第1回目のプロテスト、つまり1期生は合格者ゼロでした。従って1期生はこの世に存在しないのであります。ちなみにチャーターメンバーは19名。ライセンスナンバーは19名のみで、歳の順で発行されました。

チャーターメンバー ライセンスナンバー順

 1.伊藤  清久(名解説者はもういない)
 2.井本  正忠(昭和36年からのつきあいハタの仲間)
 3.岩上  太郎(コイツにはホント勝てなかった、強かったね)
 4.すみ  光保(オレ)
 5.石川  雅章(現会長、いまこそ協会変革のときだ)
 6.粕谷  三郎(良き好敵手、喧嘩相手だったのに・・・)
 7.藤井  政一(リタイア 色男)
 8.山下  昌也(日本のレイ・ブルース万年2位)
 9.佐藤  則夫(リタイア オレがヤツの女房を紹介した。ハタ出身)
10.和田 幸二郎(女房一筋30数年?オレとイイ勝負か・・・)
11.水谷   稔(リタイア 1番のボンボンか?)
12.石山  泰行(リタイア 今どうしているのかね?)
13.福島  稔夫(リタイア 江戸っ子野郎)
14.浪間   章(ボクシング 元フライ級ランカー ハタ出身)
15.大久保 洪基(専務理事兼副会長 ハタの仲間)
16.川井  英一(右利きなるも、左で200アベレージ)
17.田口  勝彦(テレビ決勝で7マークを逆転された憎いヤツ)
18.矢島  純一(我らが矢島、未だ現役。協会運営にもっと力を)
19.井上   望(我らの坊ーヤ未だ現役)

こうして最初の仲間、いわば同級生を思い浮かべるのは、現時点つき合っているにせよ、懐かしさを禁じ得ない。ということはオレもそろそろ残り時間がなくなったということか? 日本プロボウリング協会の歴史を我々が創ったんだと言う、自負があってもいいけれど、もう我々がイニシアティブをとる時代じゃないよネ。我々はチャーターメンバーとして祭られてればいいのです。

イヤー、これはわたくしの意図とはちと違うね。人間歳じゃない。歳をとったって必要なヤツは必要なんで、若くたっていらないヤツはいらないのです。石川も大久保も矢島も、オレも、もういらない部類なのです。若手に引き継いだ方がいいのです。ですから、株式会社スミは定年制がありません。わたくしはプロボウリング協会にとっていらない人でも、我が会社にとっては?やっぱもういらないかも・・・・?

投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。

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