若かりし頃ずうっとフランスに憧れていました。 現在も然り。
二十歳前後は役者の世界にいたものですからモスクワ芸術座のスタニスラフスキーと巴里で活躍していたサラ・ベルナールの師匠コクラン。

わたくしはこの両者に共に大きく影響を受けていました。
演技論ではスタニスラフスキー。センスではコクラン。
ですから当時音楽はもっぱらシャンソンばかり聴いたり歌ったりしていました。
それがあるきっかけでジャズにハマってしまった。  

今月は初めての音楽中心のお話しです。  
1961年。光保君ジャズ聴きに行こうよ。
親友の宮崎弘次から誘われて生まれて初めて観て聴いたのがアート・ブレイキーとジャズメツセンジャーズでした。
衝撃でした。こんなに凄い音楽の世界があったのだ。”モーニン”は当時そば屋の出前持ちの兄(アン)ちゃんが自転車で蕎麦を配達しながら口ずさんでいたぐらいです。いまでもコマーシャルで流れていますね。  

それ以来宮崎と共に巣鴨西口にあったジャズ喫茶「角」に毎日入り浸りでした。1961年だったと思います。
50年代はわたくしからすればジャズとボウリングの黄金時代です。
50年代のボウリングのことは改めて近々触れることにして今月は初めて音楽、しかもジャズとの出会いについてお話ししたいと思います。

ビートルズの初来日はたしか1963年。わたくしはエルビス・プレスリーからジャズに飛びまして、ビートルズは何故か当時聴かなかった。  
わたくしにとってジャズの魅力とはまずリズム。
そうしてサビとインプロビゼーション、つまりその自由性。こんな自由な音楽があったのです。
それがジャズなのでしょう。  

いまはマンションになっていますが、以前エビスグランドボウルの正面のビルの地下にピガピガというジャズクラブがありました。日本を代表するドラマー石川晶(アキラ)が経営するジャズクラブ。
そうしてサックスの名手秋本薫がいつも共演していて4人から6人ぐらいのバンドで夜な夜な演奏。
イヤー入り浸りましたね。毎晩のように通いました。

石川、秋本両氏とはとても仲の良い友達になりました。  
ですからピガピガバンドを引き連れて、ボウリング場のオープニングに参加したり、ブランズウィックオープンの開会式のイベントで演奏を行ったりしました。

ブランズウィックオープンのファイナルは毎年シカゴで行われ日本の代表選手を毎年シカゴに連れて行ったものです。
ジャズのスタンダードにシカゴという名曲があります。
オープニングには毎回シカゴを演奏したものでした。

ブランズウィックオープンは全てわたくしが司会進行を担当してきました。
そのVTRは本山に全て揃っています。ご希望がありましたらお見せいたします。    

極めつきはブランズウィックオープンのテーマ曲を石川&秋本両氏に作曲してもらったことですね。
タイトルは“ブランズウィックピガピガ”この曲は当時のBW会会員センターには全て配布しました。
どちらかのセンターでお持ちでしたらコピーをしていただきたい。
自然と踊りだいたくなるようなリズミックな楽しい曲でした。これは使わない手はありません。  

しかるにボウリング場での音楽はどこのセンターも無神経ですね。
当センターも同様なのですが、もっと音楽には気を使うべきだと思いますがいかがでしょうか?    

ドラマー石川はアフリカの音楽に傾倒していていつもアフリカに行っていました。
ナベサダもアフリカには傾倒していましたし、最近来日のトニー・アレンもアフロビートで我が国に大きな影響を残したようです。
しかるにジャズが何故我が国に定着していないのでしょうか? 
クラシックや演歌に比べて少数派のような気がするのですが・・・テレビでもジャズはまず中継しないし番組を組みません。
少数派すぎるからなのでしょうか?  
何故ジャズが少数派なのでしょうか? 
楽譜にとらわれない自由性に日本人がついていかれないからなのでしょうか。  
わたくしにはわかりませんが、少なくともわたくしにとりましてジャズの魅力はその自由性にあるといえます。  
古い村社会の住人には自由が大きな負担になるのでしょうか。

人と同じように動き、考える。“赤信号みんなで渡れば”です。
ここに住んでいる限りジャズとは無縁となるのでしょう。  

いままでジャズと無縁だった方にお勧めしたいのは50~60年代のジャズです。
わかりやすいし魅力的です。そうして1度は聴いたことがある名曲がずらりです。  
まあこれをきっかけとして当時のジャズからなぞってみましょうよ。  
わたくしはジャズとボウリングはマッチすると思っているのですが、残念ながらそれは少数派。
各センターで流れている音楽はどちらも流行のポップスですね。  
お客様の層によって流す音楽も変化させたらいいと思うのですが。浪花節だっいい。  
無神経ではいたくない。

Follow me!

投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。