「すみさん歳食ってんだからさ、死んじゃう前に昔のPBAプロとの交流の思い出を語っておいてほしいナ」などという失礼なヤツがいる。考えてみると間違っていないからハラがたつ。
 時々業界の方とその近親者が死去したニュースが飛び込んでくるが、その全てに顔を出していたら目も当てられなく面倒である。土台儀式は大嫌いだ。
人間100%死ぬんだからドウってことないのだ。
だから絶対にわたくしの葬式は出さないよう言っている。葬式なんて他の人に迷惑だ。
なにかやるんだったら楽しいパーティーでもやるべきだ。  人間100%死ぬという話をしたら、ある人が感心していた。
「そう言われればそうですね」わかっていても自分の事としてとらえていないのが現実だろう。
何故って人間死ぬまで生きているのだから。死は全ての人にとって無関係。
歳食ってんだからと言われればなるほどと思わざるをえない。

てなわけで今の内にPBA関連少し語っておこうか。  
生きている内にやりたいことは山ほどあるのだけれどね。これはとても追いつかないね。
せいぜいLTBプラスか・・・  

それはそうと一昨年ディック・ウエーバーがいなくなり、今年はドン・カーターが逝った。
われわれ古い人間にとってはこれはやっぱり寂しいね。テメエが死ぬ分にはちっとも寂しくないけれど。  
わたくしが最初に出会ったPBAメンバーはハリー・スミスだったと思う。
進駐軍(正確には占領軍だ。進駐軍という表現は誤魔化しだ)として日本に上陸して時々東京ボウリングセンターで投げていた。
フィニッシュで高く飛び上がる独特なフォームは当時ビギナーのわたくしにはたまらない魅力だった。
真似ようったって真似できない。多分昭和30年の頭ごろだったと思うが。  

次に出会ったPBAメンバーは、30年代のはじめ東京ボウリングセンターで行ったスクールで講師のフランク・クラウズだ。
AMFのボウリング学校の校長先生とのふれ込み。すっ飛んでいきましたね。
彼は小指を曲げてグリップし投球していた。わたくしは「何故小指を曲げるのか?」
と質問したところ彼はリリースのとき小指でボールを押すのだと答えた。
あんなド太い小指だから押すことも出来るのだろうけれど、わたくしのような貴族的な華奢な白魚の様な優雅な指ではとても無理。(ちなみにわたくしの手は須田開代子と全てぴったりだった)しかしセンターに戻って試合で実験したところ生まれて初めての700アップをマーク。
当時の700は大変な記録なのです。多分700アップは史上2~3人目だったように思う。
それ以来小指を曲げて投げてきた。小指を曲げると付随筋である薬指も自然と曲がり、それがグリップに強い影響を与えたのだろう。ただし腱鞘炎の要因になるので注意が必要です。  

次に会ったPBA選手は朝霞のキャンプドレイクで投げていたビル・ホッピーだった。昭和36年頃だった。
彼とはカテリーナというチームで一緒に2年間リーグを投げた。
このABC公認リーグの体験こそが、ボウリングの本質であるリーグに目ざめさせてくれた。

200アベ以上のプロと100に満たないおばさんとが一緒のチームで楽しく試合をしている情景、これが素敵だね。
これがリーグだね。後日ディック・ウエーバーが来日したとき日米対抗トーナメントを後楽園で開催、ビルも参加してくれた。
優勝は矢島純一だった。  ディツク・ウエーバーといえばこの来日のときのウエルカムパーティーを目白椿山荘で行った。
わたくしが司会を担当し粕谷三郎が通訳だった。  ハタ時代昭和40年ごろだったろうか、ドン・エリス、ボブ・ストランピ-、ジョー・ジョセフがハタにやってきた。
彼らのコンディション対応技術をみようってんで彼らには内緒で右側レーンをギダギダ、左レーンをカラカラにした。
さすがだった見事に対応した。彼らはコンディションのことには一言もふれなかった。後で事情を話し深く謝りました。
ボウラーはコンディションに関しては決して口にしないのだ。教えられた。

井上望はストランピーの影響を誰よりも受けたプロだったと思う。真似してダメになったのかも知れない。  

何よりもわたくしが大きな影響を受けたのが当時PBAの選手会長でもあったバズ・ファジオ昭和41年。
それとバドワイザーチームのキャプテンでディック・ウエーバーのコーチでもあったホワイティ・ハリス昭和42年だ。
このふたりのPBAスタッフはブランズウィック(BW)の招聘で日本における初めてのインストラクタークリニックの講師としての来日だった。
BWではバズを使ったボウリング教室用の映画を作成する。幸運にもその制作責任者に任命された。
BWとつきあうきっかけになった。  
終了後当時のBW添田社長とバズ宛に感謝の手紙を出したのだけれど、この手紙がひとつの決めてになって42年BWと契約を結ぶこととなったのです。
42年のホワイティのとき、わたくしは彼のアシスタントとして18ヶ所の講習会場をまわった。
この2人のPBAメンバーとの出会いこそがわたくしのボウリング人生を決めたと言って良い。
ホワイティは弊社(株)スミの顧問に就任してくれたし、バズはPBA設立時の体験談を聞かせてくれJPBA設立のアドバイスをくれた。残念ながら2人はもういない。  

PBAの公式試合が下高井戸スターレーンで開催された。そうそうたるメンバーの来日だ。
ディック・ウエーバー カルメン・サルビノ レス・シスラー ジム・ステファニッチ ドン・ジョンソン ジョニー・ガンサー ビリー・ハードウイック。
後誰だったろうか。興奮した。ウエーバーがリリースの度にバランスを右に崩しながらのストライク。ウエーバーヒットだ。
左のシューズのかかとが右のかかとの倍近くあった。ノースライドの力の集約をリリースに応用していたのだろう。

サルビノはクラウチングで、驚いたのはサムホールを正方形に開けていたこと。ガンサーは肘を曲げゲンコツをつくってのフィニッシュ。そうして1番わたくしが注目したのはステファニッチとジョンソンだ。ファイヤーストンで299対300の死闘でステファニッチが勝ったニュースを知った直後だったのか、この死闘は来日の後だったのか記憶にない。
いずれにせよ個性派揃いだった。   
いったんプッシュアウエイしたら、フォロースルーの最後の最後まで決して肘を曲げないで投球するステファニッチ。
フォロースルーで腕を1回転させるジョンソン。

PBAプロはあまりグローブを使わない。当時ドン・カーターグローブと、ドン・ジョンソングローブぐらいだったろうか。
ジョンソンはまるで自分のグローブをPRするがごとく腕を回してグローブを見せびらかしているかのようだった。
わたくしの横で見ていた石川雅章はステファニッチにすっかり惚れ込んで終了後早速練習につきあわされた。
不器用な石川はどうやっても肘が曲がってしまう。どこからか板切れをもってきて肘に巻き付けろという。それでも腕が曲がりそうになる。見るからに痛そうだ。
本人も悲鳴をあげながら投げ“ウンやっぱこれだ”なんていいながらすぐにやめた。  
こときの悪い置き土産がガンサーとシスラーによるトリックレーンメンテだった。  

その後アメリカシカゴではじめてマーク・ロスに出会う。近代ボウリングの創始者として多くのプロに影響を与えたマーク・ロス。リリースの度にパチーン・パチーンというアプローチを蹴る音が響く。  

そしてはじめて来日した女子プロ。ヘレン・デュバル、グローリア・ブービア、ジュディ・クック。一緒に日本を巡回した。
43年だったかNBKは女子プロ、メリー・デバブリーと契約し、彼女は約2年間滞在した。
彼女が米国に帰国した後、彼女のロスアンジェルスの自宅を訪問した。
一家で24レーンのボウリング場を経営していた。ボールやピンのコレクションをうらやましく思いながら帰ってきたのを思い出す。ヘレン・デュバルの息子にリッチ・デュバルという小児麻痺ハンデをもったPBAプロがいた。
ワンステップアプローチで200アベをマークする。彼には特にインストラクションの面で教わることが多かった。    

ある時期までNBKで行っていたインストラクター認定クリニックを、いちメーカがやるべきでないとの意見が業界で言われNBCJで行う事となり、その担当講師を選定するために米国PBAコーチのビル・ブネッタが招聘された。
当時の主たる日本のインストラクター15名を集めて1週間田町ハイレーンで缶詰での講習会が行われる。
そうそうたるメンバーの参加だ。粕谷三郎、田口勝彦、和田幸二郎、すみ光保、宮田哲朗、高田誠、園田浩、その他8名、合計15名。
後で知ったのだが、ペーパーテストと、表現力テストで第1位の者がNBCJ専任講師としてその後の日本における講習を担当するのだという。ラッキーなことに何故かわたくしがトップになり以後長年専任講師を担当してきた。

バズからは厳しさを教わり、ホワイティからは楽しさと笑いの大切さを教わり、そしてブネッタからはボウリングを科学的にとらえることの重要性を教わった。  
パーカーボーンⅢとの出会いも大きかった。九州からの帰りの新幹線、広島で途中下車し原爆記念館を観たいといいだした。観た後彼は東京に帰るまでショックで一言も口をきかなかった。
PBA選手間では彼は1番のインテリであり、他のプロに大きな影響を与えていると口を揃えて言う。  

4年前JBPを立ち上げたとき、ライノ・ページとロバート・スミスを呼んだ。
約1ヶ月関東にいるときは吉田樹弐亜プロ宅に寝泊まりしてもらった。
ライノ・ページは帰るとき涙を流して別れを惜しんでいた。素敵なヤツだった。
ロバートも気さくで何にでも対応してくれた。予定が大幅に長引いて長時間にわたっても、文句一つ言わない。パーカー・ボーンも同じだった。これがプロ意識なのだろう。

ドン・カーター、デイブ・デイビス、オリコフスキー、カーク・クルーガーその他まだまだ沢山のPBAプロとの思い出があるが紙面の都合もありまたの機会にしよう。

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投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。