1967年(昭和42年)19名のチャーターメンバーでスタートしたJPBA。
そこから今日までの45年間、わたくしの脳裏に焼き付いている我が国における偉大なるトーナメントプレイヤー5人衆を挙げてみたい。わたくしの挙げる5人は多くの人と一致する選択だと思うがどうだろうか?  

脱線しながらいってみる。挙げる5人は全てスタープレイヤーだ。
全員わたくしの後輩に当たるわけだが、わたくしは相手がスターだと気後れがして取っつきにくく、ついいつも距離を置かざるを得ないでここまできた。
残念と言えば残念なのだが、それがスターたるゆえんでもある。あるいはわたくしの小心さ故か。  

先ずは矢島純一だ。すでに60歳をとっくに越えている矢島がいまだ現役で若いプレイヤーに引けをとらないなんてのは見事というより驚きだ。わたくしは矢島がいたから初年度からトーナメントをあきらめインストラクターに徹してきたのだ。
彼のこの誰にも真似ができない息の長い秘密はどこにあるのだろうか? 
一言で言えば基本的な無理のないフォームにあるのだろう。一生できるスポーツを地でいってほしい。  
当方にとって矢島は近寄りがたいスタープレイヤーなのだけれど、何よりも矢島に感謝しているのは昔理事会のとき、前都築会長と対立してわたくしが会長に反抗し、思わず大きな声を出してしまったとき、矢島はわたくしの耳元で「それはないですよね。間違っているのは会長だ」と一声かけてくれた。
後の理事連中は沈黙。このときの矢島が嬉しかった。いまでも矢島のその一言がわたくしのなかに大切にある。  

常に大多数、大衆はノンポリであり、自分は安泰のところを確保し、無難にやり過ごそうとする。これはどこに行っても同じだ。だから選挙にも行きたくないし、役員にもなりたくない。わたくしは自分を含めて大衆を信じない。  
ふざけてアラミスを矢島に振りかけられたりしたのも、矢島の新宿の店に3回ほど行ったのもよい思い出である。
次期会長は矢島という噂もあるが、多分彼は断るのではないか。
もし会長を受けるとするならば何のための協会かという自分の考えを全面に押しだしてほしい。
それには良い相棒をつくることだ。その相棒がいないのが困るね。  

保倉義孝。すごいボウラーだった。矢島を凌がする逸材だった。もっともっと抜きんでていいボウラーだった。
想像するに多分練習嫌いだったのではないのだろうか。彼の恵比寿の店にはよく飲みにいった。
そして東京プリンスホテルではお互いカップル同士でよくかち合ったものだ。わたくしは保倉のオシャレが好きだった。
ジーンズと、ネクタイとスーツのイラストがあるブランドもののTシャツの服装でトーナメント出場は素敵だった。

ダサイJPBAはそれ以来ジーンズ&Tシャツを禁止にしてしまった。なぜだかわからない。いやわかるよ、
単に既成概念に毒されているだけだ。どんな組織も保守に毒されているところに発展はない。現JPBA然り。  
保倉のボウリングの秘密はそのリリースにあると思っている。アンロードの走りか? 
わたくしより先に逝くのは早すぎる。  

西城正明。先輩にいじめられながらもどこ吹く風のようだった。いつも孤立無援。そこが好きだった。
わたくしとて西城を応援できたのは須田とのブランズウィック契約ぐらいのもので、あとは協力できるものではなかった。
何ヶ月かの前のボウリングマガジンに西城の特集があったが、わたくしを含めて賛否半々だ。
孤立無援の西城はついにライセンスを返上した。気持ちはわかるがこれは誠に残念。
まだまだ現役で活躍できるのに。
ここでも須田開代子がいなくなったのが悔やまれる。目黒の西城、須田邸で開代子のナポリタンをよくごちそうになった。おいしかった。須田が健在ならば、西城はまだまだ投げていたし業界に熱を入れていただろう。  
無上のコントロール。そしてリリーステクニック。  一芸に秀でている人は何をやらせてもこなすようだ。

西城はゴルフも最高だし歌も上手いし、絵も上手だ。矢島然り。絵といえば大久保も上手だった。    
あるときブランズウィック企画広報室の足利哲二氏が、酒井武雄と契約しました。

新潟での初めての仕事一緒に行ってくださいとのこと。初めて酒井を見てこれまたびっくりしたね。すごいヤツが出てきた。新潟で一緒に仕事してわたくしはいっぺんに酒井フアンになった。下の息子を酒井と一緒の仕事に連れて行ったら彼もまた酒井フアン。30年以上経ったいまでも酒井の成績を気にしている。わたくしとて同じ。  

娘の美佳がプロになった。その投球を見て、正直わたくしは美佳の将来を期待しなかった。
よくプロテストに受かったなぁ と思ったぐらいだ。しかし、さすが酒井、見事に美佳を一人前にした。  

川添奨太を昨年プロテストではじめて見たときも、大きな衝撃をうけた。即弊社(株)スミと契約したのだが、
これまた正解。ジャパンオープン連覇、全日本選手権連覇、2年連続三冠王とたちまち信じられない大活躍。
わたくしのコーチとしての見る目は確かだと自惚れている。
川添の強さの秘密は何度か触れてきたが、最大の秘密は彼の奥さんにある。その内改めて紹介したい。  

NHKの「スポーツ大陸」や、朝日放送の「報道ステーション」などで取り上げられ、ソフトバンクと契約。
まだプロになって1年少々だというのに川添が業界に果たした役割はすでにでかい。
しかし川添が本当の意味で活躍するのはこれからでなくてはならない。まずPBAに勝つことだ。
どうかみなさまこれからのプロでもある川添奨太を応援してください。  

以上①矢島純一  ②保倉義孝  ③西城正明  ④酒井武雄  ⑤川添奨太  
この5人がわたくしが選ぶこれまでのもっとも優れた日本のグレイテスプロフェッショナルボウラー5人衆だ。  

その他わたくしの記憶に残るプレイヤーを羅列しておきたい。  
まずは岩上太郎だ。
少なくとも日本における優れたトーナメントプレイヤー第1号は岩上太郎。ボウリングの殿堂入り第1号であるべきプロである。JPBAはこのような先達を大切にしない、どころか粗末に扱っている。
これまた恥ずかしい限り。  

チャーターメンバー藤井政一。
リーグに於いて我が国初の200アベを打った男として、また無類のオシャレとしてわたくしの記憶に残る。華麗なボウリングでわたくしが個人的に好きなタイプだった。  

半井清。
こんな個性派が出てくるとは日本はこれからだ。と思わされたものだ。人柄がいいね。  

栴檀稔。
ある試合で栴檀が優勝したときわたくしは真後ろで見ていた。彼は真っ先に女房子供を呼び寄せ、奥さんの肩を抱き子供を高く持ち上げた。そして彼の優勝コメントがユーモアたっぷりで嬉しかった。
それとも根っからとぼけた男なのだろうか。話したことないけれど栴檀も人柄が良いようだね。それ以来注目してきた。     
原田招雄。
息の長い安定したプロだ。日本のアール・アンソニーか。  それと山崎行夫。原田と同期であり、同じく息の長い優れたプレイヤーだ。この二人は地味だけれど良いね。好きだね。

北岡義実もスタディでいい。  
龍隆行もいいね。
一緒にブランズウィック オープンでシカゴに行きラウンドロビンに残ったただ一人のプロだ。そのとき龍に中華料理をごちそうになったままだった。龍の病気はもう良いのだろうか。心配だ。  

塚原次雄もすばらしいプロだ。  
大澤義樹も息のながい優れたオトコ。  
貞松保行、池之端ドリームレーンで一緒に仕事をしていた時代、真夜中にアプローチのど真ん中に一人あぐらをかいて座っていたきちがい貞松をよく目にした。  

最近の若手は知らないが、山本勲がいる。
プロになって立て続けにタイトルを手にし衝撃的デビューを果たしたが、突然ばったり勝てなくなったのは、うぬぼれか、練習しなかったのか。またそぞろ良くなってきたのは気づきがあったのだろうか。いずれにせよ山本は逸材だ。
自惚れたら選手は終わり。素敵な姉貴は元気なのだろうか。  

その他名プレイヤーではないがわたくしの記憶に残る懐かしのボウラーは、サウスポー北川冬三、ハイスコボウラー片桐伸行、我が愛する故田安明、浪間章、等々。
みんな古すぎるボウラーだね。それとプロではないけれど昔JPBA事務局に中村というトーナメントスタッフがいた。やることをビシッとこなし、中村がいるとすこぶる安心だった。今どうしているか知らないけれど、わたくしの記憶に残る優れたスタッフだ。    
まだまだ気になる選手はいるのだけれど・・・・その内に。

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投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。