昭和21年、終戦の翌る年だったと思う。
小学校6年生のときだったか、母上に銀座に連れて行かれて多分「ちくてい」と言ったと思うが中華料理屋で、堅焼きそばを食べた。

今思うとあの時代にそんな中華屋があったのか信じられないぐらい美味だったとの幼い記憶。もしかしたらわたくしの記憶違いかも知れない。
いずれにせよ、終戦直後のあの時代だ。感激だった。
初体験の堅焼きそば、その美味しかったこと、いまだにそのそのおいしさが記憶から外れない。以後堅焼きそば大好き人間だ。  

 渋谷並木橋の‘長崎’というチャンポンと皿うどんのお店がいい。
特に太麺の皿うどんだ。ウスターソースをたっぷりぶっかけて辛子をきかせて食らう。
記憶が呼び起される。  
秋元泉が紹介した女性と高田誠とのお見合いはここだった。
いまは当時の女将がいなくなり、残念ながら味も雰囲気も落ちたようだが。でもうまい。

 食べ物は幼児体験で決まるのだろうか。
わたくしは母親が偏食だったせいかその影響から抜け出せないでここまできてしまった。 母は、魚、例えば鰯だとか秋刀魚だとか、必ず皮と内臓、骨を取り除いてから食した。煮魚もそうだ。
わたくしもいまだにその影響下だ。
だからわたくしは内臓関係は一切受け付けない。
その他嫌いなモノが多い。
人参、南瓜、カリフラワー、ワラビ、羊肉、鰻、いのしし、熊、豚肉の脂身、ブリの刺身、川魚、なまこ、鰹の塩から、特にゲテモノなどは絶対に食べません。

しかし穴子を征服したようにいま鰻を試してみたいと思っている。  

美味快楽などと掲げたが、わたくしは決して美食家ではない。食い物もガキから抜け出ていないわたくしは食を語る資格など無いけれども、美味しいもの追求はわたくしなりに大切なのだ。

この40数年間のボウリング生活で全国を旅して歩いて‘市’までは征服していないけれど行かなかった‘県’は無い。47都道府県は全てまわっている。

いろいろなところに行かせていただいて、たくさんご馳走になってきた。改めて感謝とお礼でいっぱい。ひとつひとつその体験を記していたら大変だけれど、そのなかで記憶に強烈に残る料理をおもいだしてみよう。  

その前に、わたくしは日本旅館が嫌いだ。何故かと言えば食事がお仕着せだから。
そのてんホテルは自分の食べたいものを自分で選べる、それがいい。
しかし、わがままを聞いてくれる一流旅館はいいですね。
芦原温泉の開花亭という旅館はサカエボウリングクラブのオーナーのご配慮でもあり最高でした。3年間毎月ご招待を受けました。
ここで食した甘エビ、当時は東京では食べられなかったのですが、こんな海老があるのか、という感じでした。
ズワイまた最高。安武民祐と大雪で3日間ここに閉じ込められぱなしでいい思出をつくりました。  

まずはダメ体験。  
四国の西のはずれ。「スミさん今日は美味しくて変わったものをご馳走しましょう」といって連れていってくれたのが暖簾がかかった寿司屋風。
店に入ってもカウンターに寿司屋同様ネタがあるガラスケース。
しかし違うのは、そのケースのなかにあるのは全て生きている蛙なのだ。
生き蛙がこちら側を睨んで正座しているのだ。  
「お客さん、どれにしましょう。どう調理するかで決まるけれど、まずは刺身ですね。だとすればこいつはどうでしょうか」指さされたそヤツは余計にわたくしをジーと睨んでいる。
フランス料理で蛙を食したことはあったけれど、まさかこんな体験をするとは思いませんでしたね。
最敬礼してご勘弁願いました。  

長野での体験。高級な割烹料理屋風。2階の特別室に案内された。どんなお料理が出てくるのかわくわくものだ。  木の桶を恭しく運んできた。真っ黒く鰻の稚魚が跳ねている。コップにお酒を入れて、その鰻の稚魚を網ですくって酒の入ったコップに入れるのだけれど、飛び跳ねて稚魚が外に飛び出してしまうので、逃げないようにすぐに手のひらでふたをする。そして、そのまま一気に飲み込むのだという。  
ご案内くださった方々は美味しそうにやっている。「この喉ごしがたまらんですよ。のどを通るとき、おなかに入ったときのこの動きが何とも言えない。白魚なんてものじゃない。スミさんやってみてください。」 最敬礼。  

岐阜。鮎の季節。一流料亭。鮎ずくしのフルコース。川魚がダメなわたくしは最敬礼。  
新潟。鯉のフルコース。最敬礼。  

昔、松坂のあるセンター。今日は美味しいものをご馳走します、とそこの部長。やったぜ‘和田金’だ、と内心飛び上がった。一人だったら個人でも行くつもりでいた。  
ところがなんとファミリーレストランだった。ジャワカレー。うなだれ。  

美食家白石雅俊兄の誘導で高田誠、秋元泉と一緒に赤坂のキャピタルホテルに行く坂道の途中にある有名な鰻や。
石川雅章と和田幸二郎に連れて行かれた横浜の鰻の名店。
ハタ時代、井本正忠に付き合わされた鰻屋。意に反してうなぎ屋にはよく連れて行かれたものだ。今にして思うのは何とか鰻を試してみたいとの思い。みんなが本当に美味そうに鰻を食っているとき、こちとらぁお新香にご飯は、何とも情けない。
嫌いだった穴子が大好きになったようにきっと鰻も好きになりそうな気がいましている。  

ジュンサイも嫌いだったが、徳島の一流の料亭‘青柳’の長男経営のカウンター割烹 ‘婆裟羅’という店で好きになった。嫌いなモノから脱却するには超一流の店でチャレンジすべきと思う。
いま名古屋にいるのだ、ひつまぶしを一流の店で試してみたい。
あるいはやはり蒸してある江戸前の鰻がいいのだろうか。きっと我が人生もう一つ生きてきてよかったという思いにつながるような気がしている。  

考えて見ると全て食べず嫌い。お袋の影響か。    

昭和42年長野の上田。すき焼きで初めてエノキダケをいただいた。  
昭和46年名古屋でステーキの付け合わせで初めてエリンギを食した。
この二つはよかったね。キノコ類は食べず嫌いが多いが、松茸、椎茸とこのふたつは最高だ。  
上田ボウリングセンターでは朝1番現場に行ってみるとレーン全部が真っ黒だ。なんだこりゃとよく見ると小さな蛙がレーン全体に真っ黒に張り付いている。
驚いた。取り除くのにスタッフは往生していた。蛙はボウリングが好きなのだ。    

すき焼きといえば、パーカー・ボーンⅢご夫妻を人形町‘今半’で高田誠と一緒にしゃぶしゃぶでもてなした。美味しい美味しいといってかなりのおかわり。
いくらの支払いになるかこっちはドキドキ。5人前で30万前後払った記憶があるギャー。

次の日何が食べたいかパーカー・ボーンに聞いたらまたまたしゃぶしゃぶという。高田と相談して食べ放題一人2800円に連れて行った。彼はここでも何人前食べただろうか。今半と同じぐらい美味しいとの感想だ。
以後PBAは全て食べ放題だ。
PBA副会長カークとその同行連中も食べ放題だ。  

しゃぶしゃぶは‘今半’もいいけれど、‘柘榴’も最高だね。  
赤坂9丁目に約9年間住まいと事務所をもっていた。いまはなくなってしまったが近くのビルの2階に‘三久(サンキユウ)’という素敵なステーキハウスがあった。安くて美味しいが1番だけれどまさにここはそれ、最高だった。支払ったお金に納得できるかどうかで価値は決まるね。  
近くに‘ハマ’や‘赤坂’という有名なステーキ屋がいまでもあるけれど、三久が今あったらと思うのです。 当社の最初の事務所は昭和43年四谷左門町の茶道会館2階3階。

地下に当時は最高の‘スイスシャレー’があり、ここでタルタルステーキを覚えてとりつかれた。  
ステーキと言えば神戸‘アラカワ’の支店が、新橋にあり、ブランズウィック時代、ときどき外人などを接待したけれど最高だったね。昭和44、5年当時で一人前5万以上だったので個人ではいけなかった。  

グランド六甲の初代小泉社長に連れていっていただいたのが、‘ハイウエイ’というとても小さな神戸のステーキ屋。谷崎潤一郎などがよく来店したとの新聞記事が掲示されていた。おいしかったですね。肉って部位により、店によりこうも味が違うのかを知った。  

星ヶ丘ボウルの先代水野社長に連れていっていただいたのが ‘千薫庵’。
大きな民家をそのままステーキハウスにしている。
上得意のお客さまには最上階の特別室。
お風呂に入り、浴衣に着替えて鉄板を囲むとその店のご主人がお料理を担当してくれる。何とも優雅なお店だ。
もっとも水野社長が特別客だからだ。
後日高田誠と二人でやっていたら、現社長からワインが1本届いて驚かされたことがあった。ささやかなお返しはしたけれど。  

名古屋はよい牛肉に囲まれていますね。松坂牛、飛騨牛など。しかし残念ながら本当に美味しいステーキにまだ会えていない。  

以前弊社の景気がすこぶるよかった時代、社員旅行で伊勢志摩に美味い物食いにいった。そのときみんなと一緒に‘和田金’で松阪牛網焼きを食する贅沢をした。
どんなだったかは吉行淳之介、開高健その他の作家が的確な表現をしているのでわたくしは触れられない。文章で食とオンナを表現できたら作家として一人前と言われるがまさにその通りなのだろう。  

甲府コスモボウルがオープンするとき約3ヶ月教育とアドバイスで通った。行くたびに内田社長にはご馳走になりました。小さなステーキハウス。美味しかったですね。
お鮨屋もよかった。わたくしは酒飲みではないけれど“良酒水のごとし”とかいう青森のお酒が気に入り、青森イーストボウルの故三上支配人に頼んで送ってもらったりした。  

特に秀えつだったのがお好み焼き。わたくしはそれまでお好み焼きは嫌いだった。  
付きあわされたわけだけれど、これが最高だった。一人でも通いました。
山崎義則プロと一緒に何度行っただろうか。山崎は一人で軽く4人前。  

極めつけはシャトールイーズという甲府のワインだ。ワインの味などわからないのだけれど、このワインだけにはとりつかれた。24本ワンケースいただいたりした。その内の2本だけは現在も大事にとってある。いつヤルか?誰とやるか?  

ご馳走になった最高の店のひとつといえば、暖香園ボウル先代北岡社長、当時場協会会長にお連れいただいた小田原の料亭だ。
店の名前は記憶にないけれど、ここの割烹は忘れられない。
プロ協会元の都築会長との確執の仲介役をとってくださった北岡会長のセッティングだった。    

いま名古屋にいるのだけれど、割烹といえば、元東海地区場協会副会長、半田ボウル支配人だった藤井さんに‘八千代’という小さな割烹に連れて行っていただいた。
1日3組みしか客を取らない店。この店がよかった。現在もあるのだろうか。  

藤倉千鶴子プロに案内されたのが、‘春風荘’という蕎麦屋と‘鳥栄’という鳥料理だ。
春風亭は蕎麦ではニューウエーブの竹むらの系統を引く店みたいで、高級で美味しい。

が名古屋にはもう一つ上のそば屋がある。  
鳥栄は最高だったと過去形で言うのは、今回名古屋に来てすぐに行ったのだけれど、残念ながら昔の板さん、女将さんは健在で嬉しかったが、ご主人が亡くなってガックリしたままの営業で力がはいらないという感じでした。  

東急ホテルができる以前の定宿は名古屋キャッスルだったが、このホテルの地下にあった天ぷらが絶品だった。

天一のチェーンでもいえるのだけれど、板さんによって同じチエーン店でもこうも味が違うものかと思うのです。気に入っていた板さんがニューヨークの店に移動になり、それ以来行かない。
天ぷらはやはり赤坂楽亭。
ホテルキャッスルには ‘くじらい’という理髪店がありました。今でも? 
日本で初めてアラミスのコロンを扱った店でした。  

赤坂とくれば最低週1度は行っていた蕎麦の‘砂場’。
酒はあまり飲まない方だけれどこの店のおつまみは楽しいし旨い。蕎麦は北里病院の横に‘三合あん’がある。ここのそばがきとお料理類も最高。

また白金の‘利庵(としあん)’お茶の水‘松翁’神田‘松や’。しかし三合庵はお店をリニューアルしてこじんまりさせてからどうもいく気になれなくなった。  

ながく住んでいた世田谷の東松原に‘小かん鮨’という鮨屋がある。いまは引退しているそこの大将とその息子、息子の親友の3人で握っていた。その親友は3年ぐらい前に独立して六本木に店を開いたのだが、とたんにミシュラン星獲得だ。
きっと小かん鮨の大将の教えがよかったのだろう。
順天堂入院中はここの穴子チラシをよく息子に差し入れてもらいました。

名古屋の鮨屋ではドラゴンズの選手に紹介された“おけい鮨”がいい。  

ハタ時代のお客さまに連れて行ってもらったのが、上野‘ぽん多本家’。
ここの小柱のフライはどうやって揚げるのだろうか。アワビのバター焼き、タンシチュー、いかフライ、野菜サラダ、お味おおつけ、ハマグリのコキール、とんかつ。お新香。ご飯の炊き具合がいい。何を食べても最高だ。
先代が亡くなり、いまは息子の代。わたくしは先々代から続けて通ったけれど、やはりウチの息子を奥の座敷に寝かせて食べていた38年前が懐かしいし、良かったネ。
リニューアルしてからは、やや足が遠のいた。  

中華料理はモデルのクリスティーヌ・マティーンに連れていってもらった原宿の‘新亜飯店’。メニューにはないのだけれど、フカヒレが詰まったチキンが絶品。蛤と黒豆の鉄鍋料理も最高。これにご飯を入れてかき混ぜて食する、あるいは万頭で。もうなにおかいわんやだ。
何軒かあげておきたい中華はあるが、絶対に省けない店が錦糸町にある。‘大三元’という麻雀屋みたいな店名だけれど、ここは最高に美味しくて、最高に安い。季節の野菜の炒め物。細身に切ったひれの黒酢の酢豚などなど。遠いけれどわざわざ行きたい店のひとつだ。
和田幸二郎の紹介。これだけは和田に感謝。  

デザートでは、渋谷の‘シェ松尾’のクリームが入っているクレープと‘小川軒’のクレープシュゼットが現在までの最高峰だ。当時小川軒にはかなり行きました。よく渥美清に会いました。冷凍されている牛肉のお刺身が絶品でした。

フランス料理は恵比寿‘ロブション’か。安くて美味しい理想型は渋谷四の橋の‘ラシェットブランシュ’です。
と成城の‘オーベルジュドスズキ’高松の‘オーベルジュドオオイシ’も安くて美味しい。安くて美味しいイタリアンは梅ヶ丘の‘麦と粉’。  

洋食屋はたくさんあるけれど、名古屋では‘雅木’がいまのところOKだ。
大阪では ‘モリタ’がよかったけれど昨12月にいったときはメニューも変わり常駐していたママもいなくなり味を含めてがっかりしました。
東京ではやはり吾妻かオオミヤか。  

名古屋で安くて美味しいお店ぜひご紹介を・・・・

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投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。