ハタボウリングセンター(ハタBC)が終わった。  
昭和38年(1963年)12月22日オープンから48年間の営業だった。

ハタBC創設メンバーのわたくしとしては感無量というか、残念至極というか、ひとつの時代が終わったというか、オレも共に終わったというか、寂しい限りだ。

本日(4月3日)さよならパーティーだという。オープン前の昭和38年9月から携わったハタチャーターメンバーのわたくしとしては、何はおいても駆けつけなければならないのだが、残念ながら体調が思わしくなく出席できない。  

28歳のときハタと契約を取り交わしたわたくしは、企画室室長並びにコーチングスタッフチーフとしての業務契約だった。  

それまでわたくしは秋元泉、高田誠などとボウリングマガジン(BM)という我が国最初のボウリング専門誌の発行に携わっていた。これは現在のBMとは無関係だ。
ちょうどその創刊号が昭和38年に発行されている。創刊号に編集長としてわたくしの名前が記されていたのでハタBCの経営陣からわたくしに電話がかかってきたというわけだ。渡りに船、すぐにハタと契約を取り交わした。  

東京ボウリングセンターでボウリングを覚え、池袋ボウリングセンターで練習し、ハタBCではじめて現場の仕事に携わった。  

キャンプドレイクで体験し学んだABCリーグをまずスタートさせた。「ハタHDCPトリオリーグ」である。このリーグは本年までの48年間続けられていたという。最後は第何回目になるのだろうか?

まさにリーグは歴史をつくるものだ。

ハタを去る42年には当時としては業界トップの、リーグ週28本を誇った。
わたくしは一人で8本のリーグセクレタリーを担当していました。スタンディングをつくるために右の人差し指1本で英文タイプを打っていた。
パソコンの現在も右人差し指1本に変わりないけれど。  

そして報知新聞事業部との共同主催のボウリング教室の開催。
このとき日本におけるLTBの原型ができあがったといえる。

“招待ボウリング教室からリーグへのパターン”だ。  

このタイトルを元に49年にブランズウィック会で企画提案した。
そして昭和51年に米国よりのLTBが紹介される。  

当時のハタ谷総支配人から、「どんな試合も上手な者が勝つ。初心者にもチャンスがある企画を考えろ」といわれ、企画書として提案したのが“ストライクチャレンジ”だった。
今や日本における定番企画だ。

これもBW会提案企画として活かされた。ラウンドワンでは全店で実施。
それと“ジャンケンポン勝ち抜きトーナメント”。  

ボウリング教室、リーグ、そしてどのようにお客さまを喜ばせるかという営業企画などでハタBCは業界をリードしていった。
そしてそこにわたくしは携われたのだという自負と誇りがある。ハタBCは業界に於いてひとつの時代を築いたと思っている。  

コーチングスタッフはわたくしがチーフで・武藤喜一郎・伊藤秀夫・井本正忠。  
ハタからは数多くのプロが排出されている。1期生といわれるチャーターメンバーだけでも、井本正忠、すみ光保、佐藤則夫、波間章、大久保洪基と19人中5名を要している。 
そしてのちの43年設立の株式会社スミに、ハタ出身のプロから所属したのは、井本正忠、大久保洪基、田安明、鈴木幸夫、佐川正道。その他わたくしの在籍した約5年のすぐ後にプロになった伊藤武司、竹田雄二郎、竹田加奈子夫妻、大森ポンポン。武井利元、田原通弘、ジュニア部出身の白石憲児、このあたりまでは関わりを持たせてもらったね。田原道弘はわたくしが担当した立教大学職員対象の教室卒業生だった。
その後何人のプロがハタBCから巣立っただろうか・・・  
大久保洪基や、後にブランズウイック名古屋の支配人になった木下達夫、メンテの川畑、などの採用面接に携わったのも懐かしい経験だった。関和子という名物フロアーマネジャーもその一人だ。わたくしが担当していた企画室には、後に和田幸二郎夫人となる弓子さんがいた。

在籍のはじめ当時、わたくしが乗っていた車は白色のヒルマンだった。
自費でハタのマークを自分の車に塗装し走ったものだ。ハタのマークは当時素敵なデザインだった。無論不満もあったがとにかくハタBCが好きだった。  

わたくしと同病いい加減篠原名物支配人はいまどうなさっているのだろうか? 

コカコーラの営業課長だった篠原氏からコカコーラの営業戦略を教えてもらった。
例えばLTBでわたくしが言ってきた“開発→育成→固定”という言葉はコカコーラ戦略の一環だそうだ。

そして多くのお客さまを想い出す。  
昭和42年プロ協会設立を契機として、嬉しいことにブランズウィック(BW)から契約のお声がかかり、ハタBCの仕事を1年間BWとダブって担当することを条件に理解を得てBWに移籍することとなる。結果的には1年カバーできなかったが。そしてBWには36年間のながきにわたって契約をした。  

ハタBCでの思いではその他数多くある。
オープニング企画として博報堂とニチレボウリングファッションを企画実施したこと。
このとき知的集団である博報堂とのつきあいには大きな刺激と影響を受けたものだ。  

当時現場には仮眠室がなく、メンテスタッフを自宅に連れ帰って泊めたり、アプローチで一緒にごろ寝したりした。その後すぐに仮眠室や寮ができたりした。  

白石雅俊兄にリードされJBC発起人に加わり、競技担当、渉外担当理事となり、設立を期して昭和39年5月19日、第1回全日本選手権大会をハタで行ったことも忘れがたい。  

後に筑波大学副学長になられた大石三四郎教授や増田甲子七氏との出会い、大石教授との出会いで日本で初めての大学正課体育授業を筑波大学で担当することに繋がり、全国大学体育連合会社会体育講師を約5年間担当させていただいた。  

ハタBCでの約5年間は素敵な仲間とのつながりをつくってくれた。特に先に挙げたプロ達との交友は何よりも大切なものだ。大久保とは一時対立したが、最後まで友達だったと思っている。よく飲んでは喧嘩したものだ。  

またハタBCを会場として、日刊スポーツ主催の東西ジュニア対抗戦のセクレタリーを担当した。当時中学生だった野村美枝子と初めて接し驚かされた。可愛くて上手かった。  

須田開代子との出会いもハタBCだった。今でも付き合いのある友人、当時のトップボウラー山田耕一、黒津穣風、それに元気だろうか、藤原久登・・・等々。

そして川添奨太だ。
当社(株)スミ所属の川添奨太がハタで、昨年の全日本オープンでの連続300での優勝は記憶に新しい。
NHKスポーツ大陸をご覧になっただろうか。
近々報道ステーションでも取り上げられるので是非ご覧いただきたい。ハタにおける川添奨太の締めくくりの偉業は最高だ。  

特筆しなければならないのは最愛の女房の一人との出会いがハタBCだった。彼女には先立たれたがこんな素敵な女性は過去5人しかいない。  

たったの5年弱だったが、ハタBCには我が青春があり、我がオンナがあり、ボウリングを学び、プロ協会を創り、リーグや教室を学び、多くの友達を得、何よりも最高なのは穴子のお鮨のおいしさを教えてもらったことだ。

ハタあってこそ。 鮨文に感謝。

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投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。