わたくしは何らかの使命をもって生まれてきたわけではないし、仕事をするために生れてきたわけでもない。ましてや神につかわされたのでもない。
気がついたら居たわけで親の快楽のなれの果てだ。  
“人生なんてほんの冗談よ”って思っている。だからズボラ、いい加減、極楽トンボになってしまうのだろうか? わたくしの冗談人生もそろそろ終わりだ。  
後悔あるも楽しかった七十数年。皆んなに深謝。深謝。また深謝。  

16歳のときサルトルを読んだ。何が何だかわからなかったが、サルトルのたったひとつの言葉はその後のわたくしの人生を左右したといっていい。 
「実存は本質に先行する」  

16歳当時学校のかたわら、わたくしは神田YMCA演劇部に通い、イエス様に祈り捧げ、手には倉田百三の「出家とその弟子」を抱えていたのだけれど、そして未経験のくせにセックスは罪悪という倉田の主張に傾倒していたのだけれど、そんなものどこかにっ飛んじまった。
それはサルトルを知ったからではなく、女を知ったからであることは明らかだ。  
何でこれが罪悪なんだ。バカ言っちゃいけないよキミ。ね?!  

そしてサルトルとボーバールとの自由を前提とした関係に憧れ、同じような生き方を真似ようと思ってきた。理解できないくせにサルトルを読み、ボーバールを読み、そしてカミュ、コクトー、ラディゲ。ワイルドの「ドリアングレイの肖像」その他乱読だ。  

日本の作家では三島由紀夫、金子光晴、開高健、堀口大学訳詩集の「月下の一群」等を愛読した。特に「月下の一群」は座右の書だった。古典には見向きもしなかった。
わたくしの読書そのほか全ての出発点は快楽なのかも知れない。
その証拠に、女を知ってかというもののめり込み、付け足すとすれば美味か。
この軽薄さ。  現在の病気は今までの食い物によるところが大きい。
それが原因と思っている。それと16年前までの喫煙だ。  
キミ達たばこと塩分過多だけはお止め。いまや喫煙は呼吸器内科の病気です。
大切な人やスタッフ、お客さまに病気になってほしくないし、いつまでも健康でいてほしい。
少なくもわたくしみたいになってほしくない。ましてやボウリングは健康産業の一環だ。  
このわたくしのお手軽さ、無責任さ、金子光晴に言わせれば江戸っ子気質なのかもしない。(注:東京には・江戸っ子・山の手っ子・三多摩っ子の3ッがあり、わたくしは山の手だから厳密には江戸っ子ではない)

少し金子のエッセイを引用してみよう。
「(前略)江戸っ子に生をうけたというだけで、彼らはえらばれた民とお思い込み、(途中略)口先ばかりではらわたがないかるがるしい性質をかえって誇りにするのは、いつの時代、どこの都にも共通な庶民の根性ということができる。(正にオレだ)
彼らが、負け犬に賭けたり、非力を知って裸一貫をふんぞりかえってみせたりする強がりや、負けおしみの強さも、勇気というより愛嬌にちかく、潔癖も、機知の軽妙さも、自嘲も、ニヒルも、すべてその根の浅いところにかえってその成立ちのものあわれさがあり、弱者のものがなしさが、甲高いメロディーとなってながれ、年月のうつろいのあいだに町の風物の骨がらみな魅力をつくって、そこにしか住むよすがのない、芯の弱い、鼻っぱしばかりのいわゆる都会人の気質を代々うけつがせることになった。・・・」(金子光晴エッセイ1973天邪鬼より)  

更に、別の金子エッセイ  
「あきらめの早い、あなたまかせの性質や(正にオレ)「長いものには巻かれろ」という考えからくる、看板の塗替えの早さ、さらには、節操を口にしながら、実利的で、口と心のうらはらなところなどは、江戸から東京への変革のあいだを生き抜けてきた人々の、絶望の根深さから体得した知恵の深さと言って良いものだろうか。 (1965年「絶望の精神史」より)  

なるほどね、おいらの軽薄さや無責任さ、鼻っぱしは強いけれど芯が弱いなどは江戸っ子気質なのか? そして看板の塗り替えの早さ。嬉しいねおいらは江戸っ子よ。  
てなことを含めてわたくしの軽薄さや価値観は醸成されてきたのだろう。  

またこんな思い出がある。小学校4年、疎開先の静岡で一人海にアソビに出かけた。途中米軍戦闘機の機銃掃射を受けた。前を歩いていた二十歳台の静岡塩原の若い衆が言たのだ「人間みんな1度は死ぬんだ。どーってことねーぜ」この台詞が気に入った。こうしてわたくしのいい加減さを助勢させたのではないのか?
 
いまわたくしの前に読みかけの2冊の本が置いてある。50年以上前に読んだ金子光晴のエッセイと山田風太郎のエッセイ「人間万事嘘ばっかり」。山田風太郎なんて今まで見向きもしなかった。
今でもですが。「くノ一忍法帳」だか知らないけれど今でも全く興味がない分野。それをある人に勧められてエッセイを手にしたところ、これが案外と面白い。というか60%ぐらいのところで価値観が同じ様な気がする。
 
わたくしは、手相人相・方角・占い・厄・縁起・姓名判断・幽霊・死刑、天皇制、冠葬祭そしてあらゆる宗教など一切信じないしむしろそれらに反対の立場の人です。

出来ば撲滅したいぐらい。家には仏壇、祭壇もありませんし、恵比寿に鷲見家の墓があるのすが、この30年以上1度も行ったことがない。お寺の名前も覚えていない。
墓掃除だけは下の息子に任せています。
また、今までお仲人を依頼されたことが何度となくあるのすが、全てお断り、1回の経験もありません。これらはわたくしの自慢話のひとつでもあるのです。山田風太郎も似たようなスタンスなのかも知れません。  

特に宗教は過去現在含めてあらゆる戦争、紛争の90%がその要因になっている様に思うのですがどうなのでしょうか? 少し勉強してみます。(宗教社会学という本を読み始めました面白くない。完読出来るか?)

わたくしがJPBAやBPAJなどを批判しているのも、自己顕示欲の表れであり、注目浴びていたい裏返しなのかも知れない。
つまり軽薄短小であり、特別どおってことのないことなのです。  

出たがりやではないくせに、人の前に立って講習会や講演を長い間行ってきたのは、きっと演じてきた古い役者根性なのでしょう。
自らの考えの基での講習や講演なのではなく、あくまでも演じてきたのだといま思うのです。ですから常に台本が必要でした。しかもれた俳優としてではなく、3文役者として演じてきたのであります。

その辺を自覚できたので改めようとは思ったのですが、いまさらそんな自分を変えることも出来ず「人生ほんの冗談よ、これでいいじゃねぇか」と開き直って残りの生を楽しむことにしているのです。  

優れた俳優と3文役者との差は何かというと、演じているのが3文役者。
真実を表現しているのが優れた俳優なのだと思います。
わたくしはすべて演じてきたにすぎないのです。自虐的になっているわけではありません。

今こそ正直にありたいと思っているだけです。 
しかしいまさらどうにもならない。 
ですから「人生なんてほんの冗談よ」って開き直って残りの人生を出来うる範囲内で楽しむよりほかないのです。そんな自己中なのです。  

遅きに失したが自己中、こりやー間違っていたね。これは・・・

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投稿者プロフィール

すみ光保
すみ光保
1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。

主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。