昨日まで、オレ本当、若いと思っていた。今気がついたのだが、オレ年寄りだった。「ボクまだ若いから」とガキがのたまうと「バッキャロー、オレも昨日までそう思っていたんだ。オレもう手遅れ。おまえもキット手遅れになるゾ!」と言うことにしようと決心したのであります。そして今気がついた。新年明けましておめでとうございます。今年はお互いに素敵な年にしたいですね。そして今気がついたら弊社も、昨年6月を期して創設40年になってしまったのだ。テメエの会社はテメエがいなくなっても存続させなくちゃならないのであります。
1967年(昭和42年)、日本ブランズウイック(NBK)と契約した年、わたくしは市川ボウリングセンターのオープニングデレクションを担当した。それが縁で市川のプロショップ経営もわたくしのグループで請け負うこととなる。最初からかなりの利益。そして翌年1968年、当時のNBK添田社長の勧めとご協力をいただき、株式会社スミを設立したのであります。当時、社名を(株)スミ・イモト・ボウリング・オフィスといいまして頭文字をとりSIBOの愛称でそこそこ親しまれたのであります。わたくしが社長で、故 井本正忠が専務。故 大久保洪基が市川BCのプロショップ担当だった。故 ホワイティ・ハリスが顧問。キャプテンのホワイティが率いるバドワイザーチームは、1958年世界記録を樹立。1999年まで長期にわたり記録を保有していた。当時のメンバーと記録を紹介しよう。
バドワイザー世界記録 1958~1999の42年間
ドン・カーター (1st)266ピン、(2nd)253ピン、(3rd)235ピン、TOTAL754ピン
レイ・ブルース (1st)267ピン、(2nd)267ピン、(3rd)300ピン、TOTAL834ピン
パット・パターソン (1st)246ピン、(2nd)222ピン、(3rd)268ピン、TOTAL736ピン
トム・へネシー (1st)228ピン、(2nd)300ピン、(3rd)231ピン、TOTAL759ピン
ディック・ウエーバー (1st)258ピン、(2nd)258ピン、(3rd)259ピン、TOTAL775ピン
TOTALS (1rd)1265ピン、(2rd)1300ピン、(3rd)1293ピン、TOTAL3858ピン
アベレージを個人に直すと257ピンだ。このバドワイザーチームのキャプテンがカブスミの相談役兼顧問だったホワイティ・ハリス。どうだ!凄いだろう!わたくしの恩師でもある。
当時、弊社のプロでは井本 正忠、大久保 洪基の他に、故 田安 明。鈴木幸雄。岩松八重子などがいた。資本金500万。市川ボウリングセンターのプロショップが当初のカブスミのベースとなり力となり、その後の発展?のキッカケとなる。残念ながら多くは故人。まもなくオイラもだ。
1967年(昭和42年)わたくし個人が日本ブランズウィック株式会社(NBK)と契約、カブスミが設立された昭和43年を機に会社対会社の契約となった。振り返ってみますと、沢山のセンターと契約をしてきました。
■経営委託で主だったところは、裾野ボウル(担当:井本正忠)、池之端ドリームレーン(担当:秋元泉)、津ボウリングセンター(担当:故 木下達雄)、太平ボウル(担当:若月隆行)など。
■アドバイス契約では、国分寺パークレーン(秋元)、田町ハイレーン(秋元)、テイサンボウル(すみ)、埼玉スポーツ(すみ)、コナミアミューズ直営センター(すみ)、小郡スーパーボウル(当時すみ担当で現在弊社直営)、ゆりの木ボウル(染谷)。
■新設やリニューアルディレクションでは、小郡スーパーボウル、ゆりの木ボウル、高萩ビーチボウル、金萬ボウル、日高ボウル、羽咋ボウル、スエヒロボウル、セルシーボウルなど。
■教育やアドバイスでは、日本ブランズウィック、NBCJ、JPBA、その他300以上のセンターです。
■オープニングデレクションやスタッフ教育の紹介は、数え切れないし、ご紹介できてもこの紙面の3年分は潰れるだろう。だから割愛。40年も経つと凄いのだ。こんな歴史があるのに弊社はチートも地名度が無い。全てブランズウィックの陰に隠れてきたからである。しかし、オレ達ァーもう自由だァー。
わたくし自身1番時間を費やし、情熱を注いだのが、インストラクタークリニックであった。昭和42年はホワイティ・ハリスのアシスタントとして。それ以降昭和43年から昭和54年まではNBK主催で、昭和55年から平成6年迄はNBCJで。平成7年から平成16年まではプロ協会主催で担当してきたのであります。プロインストラクターとして今までやってきたとの自負がございますのだ。しかし、今気がついたらもう若くないばかりか年寄りだった。残り時間はあまりない、焦っているのでございます。後に残る者達にカブスミをちゃんとしておきたい。ちゃんとしていないからこそちゃんとしておきたい。残り時間の最後をカブスミの建て直しと、プロインストラクターの育成と制度のあり方に力を注ぎたい。そしてもっと遊びたかったけれど、残念ながらそれは叶えられないだろう。
さて話は変わる。早稲田大学の学生Mさんが卒論で「プロボウリングの歴史」を取り上げたいと言う。以前のこの拙文連載を見て是非会いたいと言うので会ったのであります。歴史の話を語るととき、それは語り人に都合良く語られるものであり、決して真っ向から受けとっていいような話にはならない。それを自覚しながら、中立、事実のみを語ろうとしても不可能であることに気づきながら語ったのだが、やはり不可能であることを感じたのであります。かってボウリング場協会が30年誌(だったと思うが)が発行された。読んで腹が立って以後ページを開く気にもならない。全くボウラーの視点がないし、ウソが多い。JPBA設立前年の昭和41年「全日本プロボウリング協会設立趣意書」なるものをわが友、秋元 泉の協力を得ながら作成した。それが粕谷三郎コレクションの中から出てきたのであります。今見ると幼稚だけれど、言っていることは今でも通用すると思うのであります。それを卒論用資料としてコピーして差し上げた。つまり、歴史はこうした裏付けが必要なのでありますのだ。つまり証拠だ。カブスミが設立40年を経過して、オイラ自身70歳を遙かに越えて振り返ると、わたくしにとってボウリングは世を忍ぶ仮の姿でありまして、本当のオイラの姿・・・・それは・・・・またの話にしようか・・・・。
投稿者プロフィール
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1935年11月8日、東京都生まれ。1967年1月にライセンスNo.4の第1期生プロボウラーとしてデビューする。ボウリングインストラクターライセンスはマスター。プロボウリング協会創設メンバーでもあり、プロボウリング協会に貢献した人物。2014年4月逝去。株式会社スミ、初代代表取締役。
主な著作は、子供とボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(ぎょうせい出版)、ボウリング(日本テレビ出版)、NBCJインストラクターマニュアル、ブランズウィック発行マニュアルなど多数。